書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

編集者がいない!から見えること

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イギリスの食研究とか、情報発信のサポート(アドバイス)とかもやっているけれど、私のキャリアのなかで一番長く、かつ今も続けているのが

編集者

という仕事です。

 

でもね、編集者(長)って仕事って、すごおくイメージしにくいんじゃないかって感じます。

映画でいうと監督、に該当するし、一般企業でいうと、プロジェクトリーダーといったところかな。

要は、ある企画(編集者の場合は、書籍や雑誌、ウェブサイトとか)の統括責任者ってこと。

企画力も大事だけれど、それよりもその企画の具現化、そのために俯瞰で眺めて、いろんな人たちをとりまとめる方が大事、かな〜。交渉して、頭を下げて、何かあったら責任をとるという尻拭い的なこともするし、大いなる裏方かもしれません。

 

 

私の場合、いちライターとして仕事を受けることもあるけれど、これ、編集者視点を持っているから、発注を受けることが多いんだと思っています。

編集者視点とは企画の意図を汲み、それを文章に落とし込む、ってこと。

この世知辛い世の中、ひょこひょこ生きているのは、編集者としての技術があるから、と確信しています。

 

 

世にフリーライターはとっても多い。

自称ライターからリライター(問題になった1円ライターがそれ)、そしてうわぁ、うまいなぁ、こういうのをプロって呼ぶんだなぁ、って人までいます。

ricorice.hatenablog.com

 

一方で、フリー編集者は、というといないんだなぁ。

ときどき人が欲しいんだけど、訊かれるのですが、やっぱりいない。

このときの“人が欲しい”は、社員なりアルバイトなり、そこの事務所に常勤する人が欲しいって意味なので、独立して事務所を構えている人を紹介するわけにいかないし。

まあ、前提として、世の中が不況になって、出版社が新規採用を見送り、人材が育っていない、ってのもありますが(フリー編集者は、最初は出版社なり編集プロダクションなりに属していて、そこから独立するパターンが多いので)。

 

その理由を、編集の仕事は立ち上げから終わりまで携わり、手離れが悪く、かつ作業量も多いので、個人でやるのに向いていないから、だと思っていました。

だからチームで仕事をすべく事務所を構える、という構図になるんだ、と。

ある人は、全体を見渡すのが苦手、パニックになりそう、だから編集の仕事はしない、とも言っていました。

確かに、それは適性としてあるかもしれない。

 

 

でも、それよりももっと大きな理由があるんじゃあ、と最近感じるのです。

それは

・責任をとりたくない

・考えたくない

ってこと。


・責任をとりたくない

は、編集者は統括責任者であるので、クレーム処理を引き受ける役割です。

あっ、しまった!っていうこちらのミスもあるけれど、理不尽なことも多い。それをかわすのは、エネルギーを要します。ものすごいストレスだし。

でもね、責任を背負うことと、裁量を任せてもらえる、ってことは表裏一体で、私は、裁量を任せてもらえる、ってところが魅力なのですが、責任をとりたくない、って人、多いんだろうなぁ。

 

・考えたくない

企画そのものもそうだけど、それがスムーズに行くことなんて、まずなくって、常に微調整(ときに大ナタをふるう)を加え、全体を見渡し、関係者に連絡をとり、進める。

これって頭を使います。

目先のことをやってればいい、ってのとわけが違う。

目先も、少し先も、ゴールも見据えながら仕事を進めるわけで。

これも混乱するからやりたくない、与えられたものをやる方がラクって人、多いんだろうなぁ。

 

よく、考える力をつけて、っていうでしょ。

私、考える人って、今の時代であれば(近い将来はパーセンテージがぐっと高くなると思う)、全体の5%、もっというと3%もいれば十分だと思っています。

みんなが本気でいろんなことを考え動き始めたら、間違いなく今の社会は混乱する。

それに、何か問題が起こったら、それまでは言ってきた方が悪い、と責任を転嫁できたけれど、考えないお前も悪い、に変わっちゃうし。

何も考えず、黙々と従っている人が多い方がものごとはスムーズで、それが今の社会だと思っています。

ただ、同じ従うのであれば、誰につくかは見極めが必要、とは思うけどね。

 

 

編集者不足から透けて見えるのは、これからの社会では、

・自分で責任を負う

・自分で考える

ってことがサヴァイヴする能力になるのかもなぁ、ってことだったりします。