音楽も文学もエリアをあぶり出す
在宅時はラジオをつけていることが多く、
日本語だとAM、そしてBBCのいろんなチャンネルをその時の気分で合わせています。
AMラジオは、今秋の番組改編で、メインで聞く局がTBSからニッポン放送にシフトしてしまったな〜。
もちろん、他の局の番組も聞いていて、タイミングが合えば聞いているのが、
文化放送の『ロンドンブーツ1号2号田村淳のNewsCLUB』。
内容もなかなかにおもしろいのだけれど、
ときどき田村淳と砂山圭太郎アナウンサーがふるさと話をして、それがいいのです
ええと、私は、地元大好き!じゃないし、同窓会なんかもまったく熱心な口じゃない、
同郷だから応援しましょう、みたいなノリもどうにも苦手。
自分の主義として積極的な拒否はしないけれど、ちょっと離れたところから眺めるぐらいがちょうどいい。
過去は過去で、切り離しはしないけれど、そこに固執したり懐かしがったり、はほとんどない。
(結局、やっぱり東京がいいわ〜! 今がいちばん楽しいわ〜!になっちゃうので)
ただですね、彼らのふるさと話は、情景が見事に鮮やかに画となって浮かぶんですよ〜。
これって、すごいことよね。
だから言外にある意味もよくわかる。
先日も下関を評して、“お行儀のよくない街”としたのもよおおおくわかる。
県庁にご意見伺いの電話をしたってのも、これが実は一般的な県民の感覚なんじゃないか、とも思ったし。
イギリスに行くようになって、暮らして、実感したのは、
すべての音楽は民俗文化であり歴史である、ってことだったんだけれど、
文学なんかもそうかもね。
それはもちろん彼らの作品が肌に合わない、ってのが大きいのだけれど、
背景にある彼らの東北の地域性がイメージできない、理解できないから、ってのも大きいのでは、とぼんやり思っています。
最近、娯楽で読書を楽しむ日々で、自分の嗜好がえらく偏っているのに気づき、
その理由は、背景を画として思い描けるかどうか、そこにはエリア性が介入してくる、ってことなのかもなぁ、なんて捉えています。