書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

1カ月後は、私の13回忌を迎えていたかもしれない

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2008年の秋分の日の数日間に体調を崩し、みるみる不調になり、死ぬ直前までいったんだった。

あの時死んでいたら13回忌、かぁ〜。

 

 

新型コロナウイルスで可視化できたのは、

 

私は

・世の中に必要とされておらず

・ないがしろにされる/軽んじられる

人間だってこと。

そもそも、実力がない、人徳がない、と言われれば、まったくもってそのとおりなんだけど。

(ないがしろにする/軽んじる人とは距離をおくようにしている。

 そうされるだけの人間だとしても、そういう態度は人間の尊厳を踏みにじる行為だと思うので)

 

厭世的になっているわけでも、自己憐憫でもショックを受けているわけもなく、もやがかっていたことが、明るみになった、ってこと。淡々と確認、ってこと。

自分の代わり、それ以上の人はたくさんいる、いくらでもいる。

私がいなくても世の中はなんら変わらないし、動き続ける。

 

声をかけてくれるのは、私にぜひ!

ではなく、他に当たったけどダメで、何となく思い出して、その程度だろう。

それでもありがたいことではある。

もしかしたら、自分にもできることはあるのかもしれない。

 

 

寸前で戻ってきたせいか、死はいつも私の近くにあって、

そのときもそうだったけれど、死んでも気づかれないんだろう。

せいぜいそういう人いたっけね、で終わっちゃうんだろう。

 

寂しいとかいう感情はなく、諦観でも達観でもなく、他者にとっては私の存在はそんなもんだろう、ってこと。

 

 

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これをみて、そうなんだろうな〜、と思う一方で、

他者の価値観の中に自分の存在意義を求めていても仕方ないんじゃないか、自分のことは自分で認めるしかないんじゃないか、って気もする。

 

私は、っていうと、自分で認めているかどうか、はわからないけれど、

私を通じて世の中を見たい、という気持ちは強い。

自分が存在しているから、自分を介在して、世の中を知ることができる。その意義は大きい。

 

自信は、持ったことない。

これでいいのか、これでいいのか、ずっと問い続けている感じ。

 

 

死の直前までいって死生観が変わった、ってことはないのだけれど、

朝起きて、まだ生きているなぁ、と思う日は少なくないし、

あの時死ななかった、ってことは、生かされている、ってことなのかなぁ、とぼんやり思うこともある。

 

たまたま死ななかったに過ぎない、ってのが本当のところなんだろうけど、

生かされているとしたらなぜだろう、その理由を知りたいがために生き続けている気がする。