書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

誕生日、というもの

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疑うべきはまず自分、と思っていて、思い込みで物事を判断しないようにしています。

仕事の場でも、だし、日常生活でも。

 

ある日、ラジオ番組で、タレントであり、その番組のパーソナリティの方が、

「今年の誕生日は外出自粛で家にこもっている人が多いから、前日の余り物で食事をしても寂しさを感じなかった」と切り出し、“誕生日は特別!”を何度も力説していたので、驚いてしまったのです。

というのは、通常、その方は、なんと表現すればいいのか、既存概念に縛られていない、私からみればごく自然な発言をさせる方だったので、誕生日の比重がその方にとってそんなに重い、とは思わなかったから。

 

 

私自身は、本人の資質と、生まれ育った環境もあり、そういうことに無頓着、なので、その方の言うところの、毎年、“前の日の残り物を食べている”状況なのですが、

だからといって、冒頭で書いたように。それが世の中に人に当てはまるとは思っていない。

むしろ、例えば、レストランなどで誕生日のお祝いをしている場に遭遇すると、幸せをおすそ分けしてもらったような気分になる。

ただ、自分とは関係のないことだな〜、という、それ以上でもそれ以下でもない、というね。

 

幸せな気持ちも伝搬するのよ。

なので、クリスマスの街も人も華やぐ感じは嫌いじゃない、むしろ、いいもんだな、とも感じています。

 

 

誕生日は、お祝いの言葉やプレゼントはもらうことの方が稀だし

(最新の誕生日は、たまたまのタイミングで、たまたまの流れで、ワインをご馳走になったな。ありがとうございました!)、

それこそ、レストランで食事、みたいな、自分がお祝いされる場、は体験したことないな〜

(誕生日が特別な日、というのは学習したので、人のお祝いの場は設けることあるけど)。

クリスマスとかのイベントや、私にうれしい出来事が起こった時も、お祝いの場を与えられたこと、ないな〜。

いつも平常運転。

 

無頓着なので、そういうもんだ、というか、そもそも何も考えていないのだけれど、

誕生日もクリスマスもイベントごとも何もない、と言うと、憐れみの視線を向けらるのが面倒。

「クリスマスにひとりなんてかわいそう! うちで一緒に過ごそう」と言われたこともあり、「え〜、別にかわいそうじゃないけど」と思ったけれど、ごちそうを準備してくれる、ということで、やった!といそいそ出かけて行きましたとさ。

 

まあ、そんなわけで、先のラジオ番組で、“誕生日とは特別な日”ということを再確認した次第。

自分の物差しで物事をはかってはいけないな〜、と改めて感じたのです。