書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

年齢という紋切り型のパブリックイメージに対する違和感

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現在私は50歳で、今年は51歳になるので、まあ、年齢だけをみれば立派な初老であり、

実際に更年期だし、しわとかシミとか白髪とか見た目の身体の変化もあるし、老いは確実に現れているわけだけれど、

でも気持ちはいつまで経ってもバタバタしていて、相変わらず些細なことで笑ったり喜んだり悩んだり落ち込んだりして、あんまり変わらない。

 

 

これは、私だけでなく、同じことを言っていた人もいて、

彼らや私の感覚としては、自分の中はさして変わらないのに、自分を取り囲むものが変わっている、というか。

 

 

自分が50歳になって、ますます違和感を感じるようになったのが、

もう○歳だから、○歳からの、と言った年齢によるカテゴリーのあまりにステレオタイプのひどさ。

 

人によるだろうけど、50歳って枯れてないぞ!

わかりやすいところで、ファッションとかがいきなり“品よいおばさま”や“ナチュラル系のダボ服”ばっかりになるのはなぜだ?(もしくはいきなり、おばちゃん)

色もニュアンスのある地味な色ばかりでまったく楽しくない!

 

ウェブにしろ雑誌にしろ、記事に使われているイメージ写真が、えらく枯れた感じで、

見た目こそ年齢は重ねていても、元気いっぱい、ってのが少ないのもなんだかな〜、だし、

そこでステレオタイプで描かれるのも、50歳、まだまだです、ってのもあるけれど、そこにあるのは、“50歳になったら枯れている”が前提で、それを踏まえて“そんなことないよ”っていいたいんだろうけど、、、

 

そうか〜ぁ?

 

 

50歳になっても恋愛を楽しむ(当たり前だ! そんなの死ぬまでだ!)

50歳からでも学ぶ(当たり前だ! 歳をとったからこそ、今の時代に対応できるよう勉強が必要なのだ!)

 

そもそもの前提が間違ってるよ!

 

いちいちいくつだからどーの、っているステレオタイプ切りはもう要らないんじゃない?

歳をとってもその人の本質的なところって変わらない気がするからそれをどう生かすか、そして時代にどう対応するか、それを提示するだけで十分じゃない?