書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

これでいいんだ、とホッとした件

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私は、今がいちばんいいと思っていて、それを踏まえて未来の話をするのならともかく、過去を振り返って懐かしさに終始する、みたいなことは好きじゃない。

 

かといって、別段、過去を否定するわけでなく(どうして否定できよう、その積み重ねがあって今があるのに)、通過点として捉えています。

 

そんな性分で、同窓会とかって積極的に参加することはなかったし、かといって積極的に不参加を決め込むこともなくって、

時間の経過とともに人は変わるし、昔のことが薄れるのは当然、ぐらいに思っていたところ、

SNSの発達などで、数年前に高校時代の同級生とつながったことをきっかけに、同窓会にも参加するようになったばかりか、同窓会誌に寄稿まですることに。

あれまあ。

 

まあ、過去のあれこれに淡白ではあるのだけれど、連絡を取り合わなかった期間を経て、今つながっているのは、何かの縁だし、せっかくなので、人として協力できることは協力しましょう、ぐらいのスタンス。

 

もっとも寄稿については、同級生のひとりが推薦してくれたみたい。

私はフリーランスだし、結果としてこういう場がPRになるのもいいんじゃない、って思ってくれたみたい。

 

で、その同窓会誌が送られてきて、

B5サイズ、144ページ(9折)、厚さ1.5cmもの立派なものでびびった!(笑)

 

 

そんなわけで、私が綴った内容はとりつくろうことは別段しなかった。

まあ、とりつくろったり、すりよったりしたところでねぇ。

 

こういう場なので、 “嗚呼!素晴らしき、高校時代”みたいなものが多くなるのは、まあ、そうだろうな〜、と思っていたのだけれど、

中には、「高校時代の記憶がない」「現役生だったときは高校が合わなかった」みたいな声もあって、いいなぁ、と感じました。

 

見方によっては否定的とも思えなくもないわけで、そういう姿勢がいい、という意味ではなく、世の中にはいろんな人がいるわけで、そういう人たちがちゃんと自分の声を寄せ、ちゃんと掲載されるところが、いいなぁ、と思ったわけです。

いろんな人がいて、受け止め方もそれぞれなのは当たり前だから。

 

もちろんもともと思慕のような感情を抱いている人もいるけれど、
こうときっておそらく、どうしても、いいこと、っていうのかな、こういう場では、こういう声が求められる、みたいなところに無意識に引きずられてしまうことは往々にしてある。

 

それが、そうではじゃない人もいるじゃん!ってところに安堵感を覚えた私です。