書くこと、編むこと、伝えること

編集者、ダイレクター、ライター、情報発信サポーター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

除外したり、臭いものにふたをしたりが、本当の問題解決になるのかな?

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何かことが起こると、除外したり、臭いものにふたをしたり。

う〜ん、それって真の問題解決になるの、かな?

 

もちろん、法にふれる(その法が正しいかどうかはいったんおいておく)とか、被害者がいるとかの場合は、それはそれで償いが必要だけれど、

だからといって、社会から、目に見えるところから外す必要があるのかな?

聖人君子ばかりの無菌、無味無臭な世の中が本当にいいのかな?

 

追放される人が社会的に広く認知されているのであれば、

むしろ問題提起のいいチャンスと思えないのかな?

広く知られているからこそ、今の時代だからこそ、

どう問題と向き合い、回復していくかを開示してもいいんじゃないのかな?

そうすることで、同じようなことで苦しんでいる人の励みになるし、

周囲の理解を得ることにもつながるんじゃないのかな?

 

そこは見ていてはがゆいことや何やってんのってこともあるだろうけど、

簡単に回復できるようなら、深みにはまらなかったわけよね。

逆行する時期もあるだろうし、大事にいたらないのであれば、周囲の“見守る”態度も必要じゃないのかな?

 

排除する、拒絶する態度がいいとは、問題解決につながるとは、私にはどうしても思えない。

ついでにいうと、本人がむずかしい場合に、責任者や代理人が矢面に立つのはともかく、

連帯責任、ってのはいい加減やめたらどう? さらし者にして何が楽しいんだろう?

 

 

結局ね、ダイバーシティとか多様性を認めるとか、口先ではものわかりのいいことを言っていても、

その実、ますます異質なもの、気に入らないものを外す世の中に見えて仕方がない。

議論をして、次につなげる、ってこともしない。

そもそも意見を述べようものなら反論とみなされ、その瞬間にシャットアウトされるなんてことはしばしば。議論ってものをしないもんねぇ。

 

本当に成熟した社会って、いろんな人の価値観を認める、いろんな人が幸せに暮らせる、ってことじゃないの。

平均値に無理矢理押し込め、そこから外れる人をはじくってことじゃなくってね。