書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

表面だけなぞっても意味ないし

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高校生になる前だったと思う、中学生のときに読んで、

あ〜、こういう人好き! 大好き!

と、ある種勇気をもらったのが森茉莉(いわずとしれた森鷗外の娘で、作家)で、

正直、その頃は彼女の小説の世界はよくわからなかったけれど、

エッセイは内容はもちろん文体含めていちいちおもしろかった。

 

溺愛してくれた(もっともそれは評価とは関係がないのだけれど)父親の小説のことを

退屈!と言い切っているあたりも小気味よかった。

私もそう思っていたから。

でも文壇のエライ人圧がそれを言わせない、わからないのはバカだといった空気感、むしろそっちが嫌だなぁと思っていた。

バカでいいし、その通りなんだけれど、反論するのが面倒、というか、論点がずれるから(そーゆーもんだ、昔からエラかった、で押し通されるので、本当におもしろいの?という私と同じスタートラインには永遠に立ってもらえない)。

もっともこれも、ズバリ言い切れるのは、森鷗外の娘で、生粋のお嬢さんだから、ってのは大きいのだけれど。

 

 

大学に入って間もなく、学校ではなくバイト先だった記憶だけれど、

「学校で教授が伝授しているのは意見のひとつに過ぎない」

って言われ、そんなの当たり前じゃん! 何を今さら、と思っていたけれど、

真に受ける人が多いんだなぁ、と最近になってつくづく。

 

 

よく見るライフスタイル本。

なかでも顕著なのが、フランス人はこーです、

みたいなの(他の国もあるけど、顕著なので一例ね)。

 

それは別にいい。

こういう暮らし方なのね、って話題提供だから。

 

でも、それを取り上げるときに、

さすが! すごい! という

なんだろ、このフランスってだけで盲目的にすごい!と思っているフランス崇拝主義。

そして、これをお手本に、って目をきらきらさせて言っているのを見ると、

自分には自分の暮らしがあるわけで、取り入れるところは取り入れ、違うよ!なところは無視する、それだけのことだと思うんだけど、

必死でなぞろうとするのが気持ち悪い。

(一時期、自宅の食卓の画像アップで、判を押したように同じ北欧の食器をやたらめったら見るのが気持ち悪かった。はいはい、あなたのセンスいいでしょ!自慢はわかったから。これって支給されてんの?って思っちゃった。。。)

 

 

表面だけなぞっても仕方ないんですけど。

まず、自分がどーしたいか、自分のなかの優先順位が先でしょ。

自分基準でいいじゃない、だって自分の人生はほかでもない自分が送っていて、どうすれば自分が心地いいかは自分で決めるしかないんだから。

お手本の人とは違う人生なのに。

 

 

この人がこー言った、お上がこー言った、マスメディアがこー言った、

ってのは事実かもしれないけれど、真実ではないかもしれないわけで(都合のいい切り取り方や、その人の解釈など、バイアスは大なり小なり必ずかかっている)、

それを検証し判断するのは自分でしかないのに、

自分の意見としてこーだから、ではなく、世間がこーだから、って言われると、またか〜、な気分に陥り、そして(私にとっては)悲しいことにそーゆーこと多いんだよなぁ。