書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

お手々つないでみんな仲よく、は国際交流じゃない

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なにかにつけてやたらとこんな冠がつけられてません?

 

国際交流

 

きいていて、ずっと居心地の悪さを感じていて、何でだろう?と思っていました。

それは私の見解を異なるってことでした。

 

 

今、日本で声高に、いかにも善行のように言われている国際交流って、

小学校の道徳の時間とかに出てきたような

「みんな仲よくしましょう」

の号令の、その延長上にあり、基盤となる意識や構造は一緒なんですよね。

 

そこにあるのは、

“人はみな同じ、わかりあえる”

って前提。

 

これ、むしろ、まったく逆なんじゃないの?

“人はそれぞれ違う、基本的にわかりあえない”

って私は捉えています。

国が違えば、それの差は余計に大きく、カルチャー・ギャップとか、日本の常識は世界の非常識(その逆もあり)などと呼ばれることが発生するのはそのためですよね。

 

 

コミュニケーションというのは、

同じこと/違いを認識し、違うことについては見過ごすか、話し合って妥協点を見出すか、こっちを主張するか、

を常に行うってことなんじゃないかなぁ。

 

「あなたと私は違う、でも同じこともある、知り合ったことで理解できることが増えた(ときに逆もあるけれど)、でもまだまだ見解の違いが大きいことはたくさんある」

ってもんじゃないですかね?

 

今、言われている国際交流って、いろいろお膳立て(おもてなし、とも、おせっかい、ともいう)して、いいですね!を強要して、な気がする。

自分を見て見て!いいでしょいいでしょ!をてんこ盛りにしておいて、

相手が難色を示したら、せっかくやってやったのに(頼んでもないにも関わらず)!って急に怒り出す、だから外国人は、って言い出すんだよなぁ。

 

 

まずは、相手の意向を確かめる、ってことが大事じゃないの?

そのために、単にへらへらして頷くばかりでも、相手の意思を確認しないまま勝手な思い込みでおもてなしという名のおせっかいをするのでも、言うことなすこと拒否するのでなく、

同じこと、違うことを認識し、違うことについてはどうするか、話し合い(ときに交渉)をして解決点を見つけ出し、お互いに納得する、ってことじゃないのかなぁ。

 

 

これ、国際交流に限らず、コミュニケーションの基本だと思うのだけれど、な〜んか、基盤であるこの部分が、そもそも違うような気がして、仕方ないんですけど。