書くこと、編むこと、伝えること

編集者、ダイレクター、ライター、情報発信サポーター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

母国語でない言語を扱うときにこそ母国語力が問われる

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あるとき。

「英語の習得って大変だったでしょう」

としみじみ言われて、あ〜、わかってる人だなぁ、と。

ほんと、ある程度、日常会話に難なくなるレベルになるまでは、心底つらかったなぁ。

 

たいていの人は、英語圏に行けば住めば話せるようになる、って思っているけれど、それは大きな間違い!

特に都市部なんて言葉を使わなくても生活できるし、

通じればそれでいい、って思っている人がいるけれど、単語を並べるだけだと、最低限の意思を一方的に伝えることはできても、会話にならない。

 

 

半分ジョークで、何度テムズ川に飛び込もうと思ったか。。。

話せない、聞き取れない、ことよりも、それなりにやっているのに上達しない(と思っていた)自分のふがいなさに。

 

実感としては、少しずつ上達、ではなく、ある日突然、次のステージに上がり(何言ってるか分かる、自分でも話せる、すらすら読める!)、その後、そのレベルで停滞している状態がしばらく続き、ある日突然また次のステージに上がる、それを繰り返して、上達していく。

言語という日常に欠かせないものの場合、進歩の具合を否が応でも日々実感してしまうのですが、

ものごとの習得とは多かれ少なかれこうなのかもしれませんね。

 

 

イギリスから帰国したとき、それまで日本語にふれていなかったわけではなかったけれど、

熟語、四字熟語ってものがまったく出てこなくってまいった!

日本語も英語も中途半端な状態で、切り替えがうまくできなかったし、宙ぶらりんな状態だったなぁ。

 

なので、通訳や翻訳を専門に生業としている人は本当にすごい!と思うのです。

これって、外国語もだけれど、日本語力も相当必要だから。

しかも瞬間的に頭を切り替えたり、また、今の言葉の使い方、その背景、社会状況も理解しておかないといけないから。

 

 

なので、自分が語学ができないのに、旅行ですらままならないのを体験しておきながら、言語が操れることを軽んじるのはなぜだろう?って不思議で仕方がない。

 

よく、聞き取るのはできる、でも話せないって人がいて、
私、英語がからっきしのときって、聞き取ることもほとんどできなかった。

いかにダメダメだったか。

読む、書く、聞く、話す、文法、とカテゴリーによる得手不得手による差はあるけれど(私は読み書きが、日本語でも苦手)、軒並み並行して上がっていったなぁ、って思う。

 

 

ところで、今年、2017年は早川書房の当たり年ですね〜。

トランプ大統領就任後、米英で再熱したジョージ・オーウェルの『1984年』、

そしてノーベル文学賞を獲得したカズオ・イシグロの一連の作品。

ノーベル物理学賞を受賞したライナー・ワイス、キップ・ソーン、バリー・バリッシュを取材して生まれたノンフィクション作品、
ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーの著作も。

 

 

外国語作品を読むときはまれに原書にあたるときもあるけれど、

ほとんどは日本語訳を読みます。

となると、作家もだけれど、訳者も大事!で。

カズオ・イシグロの作品を手がけている土屋政雄氏は、私の好きな訳者のひとつ。

いやね、情景がば〜っと目の前に広り、つっかからない、たゆたうような文章になさるんですよ。

 

うまいなぁ。

 

10年ほど前にたまたま出くわしたネットの記事。

それは土屋政雄氏の訳を解説したもので、

今回のカズオ・イシグロノーベル賞受賞をきっかけにはっと思い出し、ぐぐってみたところ、

まだちゃんとありました。

 

翻訳は、日本語だ−土屋政雄訳カズオ・イシグロ著『日の名残り』

 

これ、今、読み返すと、より共感して頷くことが多い。

“単に訳すのではなく(これだと意味をなさないことが多い)、基盤となる意味を伝達する”

”外国語を扱うことは、結局、日本語を扱うことである”

これを実感できるということは、カメの歩みながら、私の英語力も日本語力も進歩しているということでしょう。

 

私がときどきぶつかるヘッドラインやタイトルを英語に置き換える仕事は、えんえん唸りながらやっているわけです。

それは、こういうことを稚拙ながら、ぐるぐるぐるぐる考えながらやっているからにほかならないのです。