昭和の歌謡曲はそんなに高尚なものだったのか
久しぶりに雑誌「東京人」を買って読む。
特集は“阿久悠と東京”。
いや、別段思い入れはないんですけどね、
ひとりの作詞家/作家を通して見る東京って切り口はおもしろいなぁ、って思って。
テレビ番組「スター誕生」の審査員であり、
ピンク・レディーの仕掛け人のひとりであり、
「瀬戸内少年野球団」(読んでも観てもないけど)であり。
いい歌詞、というか、歌詞と曲と歌唱が一体となってものすごい歌だなぁ、と呆然としたのは、
「ざんげの値打ちもない」。
でも、これリアルタイムじゃない。
吉田秋生の漫画「河よりも長くゆるやかに」(彼女の作品ではこれだけが突出して好き!)に出てきて、
なんとなく覚えていて、ある日テレビかなんかで聴いて衝撃を受けてしまった、という。。。
あと、彼の作詞家デビューとなった、モップスの「朝まで待てない」も好きだなぁ。
もっともこれは詞というよりも、曲、演奏、ボーカルがうまく融合した曲だという認識。
(もっとも、私は鈴木ヒロミツのヴォーカルがものすごく好き、ってのがあるんだけど。
“俺、うまいだろ”の暑苦しい熱唱系でなく、歌の世界に入り込む役者系でもなく、
突き放した、絶妙な距離感が持つやさしさがいい。なかなかこうは歌えない)
でつらつら読んでいて引っかかったのは
寄稿原稿のなかに「昔の歌謡曲はよかった。歌詞が素晴らしい。今のはつまらん!」みたいなのが枕詞のように導入されているものがあること。
ううう〜ん、そうですかね?
歌謡曲はよくも悪くも時代を色濃く反映させるから、
単に時代が変わった、ってことじゃないんですかね?
今の歌の歌詞は意味がわからん!って言ったって、
阿久悠の歌詞にもそーゆーのあったんじゃないのぉ?
そして、今の歌詞がわからん、ってのは、
表現形態が変わった、ってことに他ならないと思うんだけど。
でもって、今振り返るから時代を切り取った価値が浮き彫りになるわけで、
されど、ではあるけれど、たかが歌謡曲、
あぶくのように浮かんでは消える運命にあるわけで、
それをさも高尚なもののように言うのはなぁ。
確かに時代を切り取りつつ、普遍性を携えたものが今も歌い継がれているのだけど。
絵文字にしろインスタグラム(の写真表現)にしろ、独特の省略言葉にしろ、
それが今の時代の言葉もしくは言葉に類するコミュニケーション手段であり、
それを否定するってどーなのかなぁ。
今の日本語の乱れ(私はゆらぎ、と捉えていますが)をことさら声高に言う人や、
昔の歌謡曲の歌詞はよかったって嘆く人って、
自分はきちんと日本語使えます!知ってます!が根底にあり、
他者をマウンティングしているようで、あ〜って気分になる。
でもって今の時代についていけません!を公言しているようなもんじゃないの?
必ずしも理解する必要はないけど、今はこうなのね、というフラットな認識でいいんじゃないのかなぁ。