書くこと、編むこと、伝えること

編集者、ダイレクター、ライター、情報発信サポーター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

昭和の歌謡曲はそんなに高尚なものだったのか

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久しぶりに雑誌「東京人」を買って読む。

特集は“阿久悠と東京”。

 

いや、別段思い入れはないんですけどね、

ひとりの作詞家/作家を通して見る東京って切り口はおもしろいなぁ、って思って。

 

私は1969年生まれで、阿久悠阿久悠として認識したのは、

テレビ番組「スター誕生」の審査員であり、

ピンク・レディーの仕掛け人のひとりであり、

瀬戸内少年野球団」(読んでも観てもないけど)であり。

 

いい歌詞、というか、歌詞と曲と歌唱が一体となってものすごい歌だなぁ、と呆然としたのは、

「ざんげの値打ちもない」。

でも、これリアルタイムじゃない。

吉田秋生の漫画「河よりも長くゆるやかに」(彼女の作品ではこれだけが突出して好き!)に出てきて、

なんとなく覚えていて、ある日テレビかなんかで聴いて衝撃を受けてしまった、という。。。

 

あと、彼の作詞家デビューとなった、モップスの「朝まで待てない」も好きだなぁ。

もっともこれは詞というよりも、曲、演奏、ボーカルがうまく融合した曲だという認識。

(もっとも、私は鈴木ヒロミツのヴォーカルがものすごく好き、ってのがあるんだけど。

 “俺、うまいだろ”の暑苦しい熱唱系でなく、歌の世界に入り込む役者系でもなく、

 突き放した、絶妙な距離感が持つやさしさがいい。なかなかこうは歌えない)

 

 

でつらつら読んでいて引っかかったのは

寄稿原稿のなかに「昔の歌謡曲はよかった。歌詞が素晴らしい。今のはつまらん!」みたいなのが枕詞のように導入されているものがあること。

 

 

ううう〜ん、そうですかね?

謡曲はよくも悪くも時代を色濃く反映させるから、

単に時代が変わった、ってことじゃないんですかね?

今の歌の歌詞は意味がわからん!って言ったって、

阿久悠の歌詞にもそーゆーのあったんじゃないのぉ?

そして、今の歌詞がわからん、ってのは、

表現形態が変わった、ってことに他ならないと思うんだけど。

 

でもって、今振り返るから時代を切り取った価値が浮き彫りになるわけで、

されど、ではあるけれど、たかが歌謡曲

あぶくのように浮かんでは消える運命にあるわけで、

それをさも高尚なもののように言うのはなぁ。

確かに時代を切り取りつつ、普遍性を携えたものが今も歌い継がれているのだけど。

 

絵文字にしろインスタグラム(の写真表現)にしろ、独特の省略言葉にしろ、

それが今の時代の言葉もしくは言葉に類するコミュニケーション手段であり、

それを否定するってどーなのかなぁ。

 

 

今の日本語の乱れ(私はゆらぎ、と捉えていますが)をことさら声高に言う人や、

昔の歌謡曲の歌詞はよかったって嘆く人って、

自分はきちんと日本語使えます!知ってます!が根底にあり、

他者をマウンティングしているようで、あ〜って気分になる。

でもって今の時代についていけません!を公言しているようなもんじゃないの?

必ずしも理解する必要はないけど、今はこうなのね、というフラットな認識でいいんじゃないのかなぁ。