書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

修行って言ってるけど、大半は修業なんじゃないの

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たま〜にですが、托鉢の方に遭遇することがあります。

寺院に行かずとも僧侶の方がわざわざ出向いていらっしゃる、そんなありがたい機会を得たように思え、そのときの財布の中身次第ですが、1度の食事代ぐらいのお布施をします。

すると、「施財の偈」を唱えていただいたり、お辞儀をされたり、「かたじけない」と心の中でつぶやいて、その場を去ります。

 

で、ふと思い出したこと。

托鉢にみられるように“悟りを求めて実践する行”、

つまり“修行”を“修業”と綴ってあるケースが実に多いんですよね。

 

・老舗の料亭で修行した

 

といった具合に。

 

本来であれば、この場合の“しゅぎょう”は

“学問・技芸を習い修めること”“(職業的な)生業を習得すること”なので、

 

・老舗の料亭で修業した

 

とするべきところ。

ですが、“道を極める”という精神的なニュアンスが第一義であれば、

 

・老舗の料亭で修行した

 

でも間違いではなんですよね。

 

ただ、実際のところは“修行”じゃなくて“修業”でしょ!っていうケースが多く見受けられ、

・ 修行 > 修業
という暗黙の了解、だから“修行”を使った方が上!という図式がどこかにあるように思えます。

あいにく、現時点で私がダイレクションする立場では、ほとんどの場合“修業”に修正しています。

(本人が“修行”とする人に限って“修業”だったりする)

 

 

言葉は時代によって変わります。

今後、“修行”が一般化すれば、それまであった“道を極める厳しさ”の意味合いが薄くなり、“修行”も現在のところの“修業”になる日が来るかもしれません。

そのときは“修行”よりもより厳しい“しゅぎょう”を意味する言葉が登場するかもしれませんね。