修行って言ってるけど、大半は修業なんじゃないの
たま〜にですが、托鉢の方に遭遇することがあります。
寺院に行かずとも僧侶の方がわざわざ出向いていらっしゃる、そんなありがたい機会を得たように思え、そのときの財布の中身次第ですが、1度の食事代ぐらいのお布施をします。
すると、「施財の偈」を唱えていただいたり、お辞儀をされたり、「かたじけない」と心の中でつぶやいて、その場を去ります。
で、ふと思い出したこと。
つまり“修行”を“修業”と綴ってあるケースが実に多いんですよね。
・老舗の料亭で修行した
といった具合に。
本来であれば、この場合の“しゅぎょう”は
“学問・技芸を習い修めること”“(職業的な)生業を習得すること”なので、
・老舗の料亭で修業した
とするべきところ。
ですが、“道を極める”という精神的なニュアンスが第一義であれば、
・老舗の料亭で修行した
でも間違いではなんですよね。
ただ、実際のところは“修行”じゃなくて“修業”でしょ!っていうケースが多く見受けられ、
・ 修行 > 修業
という暗黙の了解、だから“修行”を使った方が上!という図式がどこかにあるように思えます。
あいにく、現時点で私がダイレクションする立場では、ほとんどの場合“修業”に修正しています。
(本人が“修行”とする人に限って“修業”だったりする)
言葉は時代によって変わります。
今後、“修行”が一般化すれば、それまであった“道を極める厳しさ”の意味合いが薄くなり、“修行”も現在のところの“修業”になる日が来るかもしれません。
そのときは“修行”よりもより厳しい“しゅぎょう”を意味する言葉が登場するかもしれませんね。