振り袖じゃなくてもいいんじゃない
成人式に振り袖を着る、ってまだまだあるのねぇ。
むしろ、そのことに驚いてしまった、このニュースを読んで(↓)。
セレモニーだからスマートな服装で行くのは、そりゃそうだ、ではあるのですが、
振り袖じゃなくてもいいんじゃないのかなぁ。
スーツでもいいだろうし、
ワンピースに小物や靴をうまく組み合わせて、
鮮やかなスカートやパンツを上手に着こなして、
でもいいんじゃないのかなぁ。
振り袖ばかりにフォーカスが当たるようで、
よく言われる着物業界の思惑もあるのかもしれませんが、多様性とか言ってる割にはそういう報道って見ない気がする。
私は振り袖を着たことがないし、そもそも成人式にも大学の謝恩会も行っていない。
成人式は30年前のことで、そのときに大学の同級生が振り袖を作る、振り袖で出席する、みたいな話をしていて、
振り袖を着るとか成人式に参加するとか、過去の遺物で、そういう人もいるんだろうけどマイノリティーだと思っていたら、それは私の方だった、というね。
振り袖を着たい、参加したい、を否定はしないよ。
したい人はすればいい。
でも、そんな人ばかりじゃないよね。
私自身は、成人式も謝恩会も、たかだか1回のために大金をはたくなんてムダ!と判断したんだよなぁ
(同様に、義務の披露宴にも出席しないし)。
まっ、私はそういうことに興味がなく、価値を見出していないわけで、
そのお金を旅行に使ったり、豪華な本を買ったり、絵を買ったり、学校へ行ったり、の方がよっぽど意味があるんですよねぇ。
それよりも、上記記事で気になった点が2つ。
・「周囲にも負けていなかったはず」
なんだ、これ?
マウント合戦の場なの? 勝ち負けはないんじゃないの?
見逃しがちなこういうところに本音が出るよね〜。
・「ママ振」
私は、いちいちなされる(わけわかんない)ラベリングが嫌いです。
さらに、母親をママ、父親をパパ、といういかにも寄り添ったようなおもねるような上目遣いの言い回しは、心底苦手。
歳をとったからこそ、過去ではなく未来に生きるのだ!
よし、本当に引っ越そう!になったのが、昨年末。
そう思った矢先、調べ物をしていてネットで出会ったのが、勝間和代の『2週間で人生を取り戻す! 勝間式 汚部屋脱出プログラム』。
8月に文庫化されたので年末に購入して、カンフル剤に。
まったくこの人は、見えるように言語化&体系化する能力がすごいね。
正直目新しい内容はなかったけれど、感覚的なものよりも論理的なものの方がす〜っと入りやすい私(私自身は直感というか本能というか、で生きているけれど、人からの声は冷静に論理的に根拠を示される方がず〜〜〜っと響く)には、おかたしモードにギアをチェンジできたのは大きな収穫。
即、実践!と思わせる書き方も、彼女の秀でた能力だよなぁ〜。
なわけで、年があけて、粛々とモノを処分する生活を送っています。
ただ、昨年春に一度おかたしモードに入っていたので、身の回りのものについては、もう一度ざっと見直す程度。
今、ガンガン進めているのは資料などの紙類です。
外出していなければ、平日の午前中はNHKラジオ第1の「すっぴん!」を聞いています。
まあ、仕事や用事をしながら、なので、聞くともなく、だけれど。
こないだの金曜日、パーソナリティーの高橋源一郎が「今回の引っ越しで、本はすべてレンタルスペース(?)に預けた。今からは、過去のものではなく、これからのものに触れていきたい」という主旨のことを話していて、いい言葉だな〜、と私の中に広がっていきました。
現在やっているのは、
・必要/不必要に分類する(無理して、ではなく、もういいよね、これまでありがと!と不要なものがかなり出ている)
・必要なものは、常に/たま〜にしてみないけど取っておきたい(資料性が高い。気に入ってるetc)に分類
で、不要なものについては、ボロボロなものは捨てる(あんまりないけど)、そうでないものは大事に使ってもらえそうな人/ところに譲る
たま〜にしか使わないものについては、保管サーヴィスを利用する、と。
「すっぴん!」での高橋源一郎の言葉に、やっぱそうだよな、と背中を押される形になったのが、取材ノートや手帳、家計簿など記録してきたものの処分。
見直すことってほとんどないもんな〜、もう捨てていいよね、と思っていた矢先だったので、うん。捨てる!と。
これらの記録で振り返るとすれば、データとしての事実。
例えば、仕事なら制作費とか、日常生活なら生理周期とか。
仕事関係は、保管用のデータに移管し、日常生活の綴りごとなら過去2年分の手帳があれば十分、かな。
だって体は変わるし、病院や薬の記録なら、それはそれで渡されたものが別にあるもの。
自分に言い聞かせるように、歳をとればとるほど、過去ではなく未来に生きないとなぁ、な気分です。
体質が変わっている最中なのかもしれない
年末年始の1週間ほど実家で過ごしました。
その間、肌がかゆくて仕方がなかった、背中とか腕とか、普段かゆくならないところが。
髪の毛もなんだかべとっとした感じになりました。
自宅に戻るとピタッと止まったので、水が合わなかったんだろうと睨んでいます。
今まで、こんなことなかったのに。
そういえば、肌の質感も変わった気がする。
これまでさらっとした感じだったのに、湿っているというかしっとりというか。
体重計に乗ったら、2カ月ほど前より、さらに1kgぐらい減ってる。
秋に体調を壊してから、トータルで5kg近く減ってるなぁ。
年末年始は暴飲暴食の時期でもあり、これで体重も元に戻るかもなぁ、と思っていましたが、
食べ過ぎたら、お腹を下してしまった(薬を飲むほどではないけれど)。
あっ、そういえば、以前も食べる仕事の1日だったときも、同じことが起こったなぁ。
今まで、こんなことなかったのに。
なんだろうな、更年期だから、なのかなぁ。体重が減ったから、なのかなぁ。
体質が変わっている真っ只中なのかもしれない。
日常生活に支障を来しているわけではなし、もうしばらく様子を見るとしますか。
にしても、全力でお腹いっぱい食べるとすぐに眠くなり、たくさん寝ちゃう、ってことがあからさまにわかりました。
これも当たり前の表現になっちゃた、ってことか
年賀状こそほぼ利用しなくなったものの、メールやメッセンジャーなどでの年始のやりとりは新年の挨拶から始まります。
何人かの方が綴っていたのは
「新年あけましておめでとうございます」。
一般の方よりも言葉に敏感、なはずの同業者の方もこの表現を用いていたので、もう一般化したと捉えていいんだなぁ、と感じてしまいました。
かう言う私も10年ほど前、まだ年賀状を積極的に出していた頃、購入していた枚数では足りなくなり、市販のあらかじめデザインされている年賀状を使うことがあり、その文言が
「新年明けましておめでとうございます」。
う〜ん、嫌だなぁ、う〜ん、困ったなぁ、
と思いつつ、そのデザイン(イラストetc)がいいな、と思い、ほかにこれ!というものに巡り合わなかったので、なんだかなぁ、と思いつつ、その年賀状を利用することに。
ええと、なぜ「新年明けましておめでとうございます」がNGとされるのか、っていうと、重複表現だから。
重複している、とされるのは、“新年”と“明けまして”。
というのも、“明ける”には“新年になること”の意味もあるので。
“明ける”のは“新年”ではない、という見方もあり、
“連休明け”“梅雨明け”という使用例からもわかるように、“過去の時間”が終わり、次の時間軸に入るときに“明け”は使われるから。
この方式に従うと、元旦に明けるのは“新年”ではなく“旧年”、となります。
では、どう表現すればいいのか。
「明けましておめでとうございます」
「新年おめでとうございます」
とすれば、無難でしょう。
もはや、「新年明けましておめでとうございます」は一般化しているのと感じられるので、
いちいち目くじらを立ててどうこう言う必要はないと思うのですが、こういうのって、うるさ方が多いのも事実。
挨拶である以上、相手ありき、になるので、
“「新年あけましておめでとうございます」これでいいんだ!”という強い意志がある場合以外は、
わざわざ重箱の隅をつつかれるようなことは自ら仕向けないのが無難かな〜、と思います。
一丸とされる気持ち悪さ! きわめつけはあのCM
うちはテレビをおいていません。
テレビを観るのは、ホテルに泊まったり帰省したりしたとき。
テレビのある環境だったので、年末年始の1週間ほどテレビを観ていたら、ラグビーの日本代表が出ずっぱりでうんざりしてしまった!
気のきいたことをいうわけでもなし。
そもそもラグビーに全然興味がないんだよ!
だからワールドカップとか言われても一試合も観てない。
日本全体が感動!とか、ほんとやめて欲しい。
こういうときに、本来のラグビー、せいぜいスポーツならまだしも、関係のない普段の生活の話とか、ほんと、どうでもいい、と思うのだけれど、執拗なまでに出演させて消耗させるんだよなぁ。
日本だけがルーツじゃない人もいて、また都合のいいときだけ日本人扱いか〜、といううんざりした気持ちに。
そして、年が明けると、オリンピックイヤー、ってことのようで、楽しみですね〜、日本全体が期待!みたいなことを繰り返し言っていて、
私は当初からオリンピックの日本開催大反対なので、勘弁してくれ〜、その中に入れないでくれ〜、な気分に。
むしろ日常生活に支障が出るばかりだよ!
交通機関がまともに機能しないだろうから、移動が大変。
仕事、どうすればいいんだろう。
頭を抱えている人も少なくないと思うよ。
でもって、うわぁ、気持ち悪い!と心底ザワッとしたのが、大和ハウスのCM.
オリンピック待ち遠しいね、っていう前提がバツ。
登場する外国人が西洋人、ってのもバツ。
料理上手な妻が家庭のことちゃんとやってて、料理教室までしちゃってます、ってのもバツ。
(いまだにこんな夫婦ロールが理想なのか、と思うと、もはや笑っちゃう)
そして終盤にヘミングウェイの『日はまた昇る(The Sun Also Rises)』ときた日には、気持ち悪さマックス!
ここで描かれている悪意のなさ、自国開催のオリンピック盛り上げましょう!にさしたる考えもなく、その雰囲気に便乗して、「私、いいことしてるでしょ」と言わんばかりに乗っかっている、しかもそこにはむしろ親切心さえあるところが(なんせ、自身の考えってものはないからね)、タチが悪いな〜、と思うのです。
「日はまた昇る」は、日本よ再び、ってことなんですか、ね。ふう〜ん。
でも、もしかしたら、『日はまた昇る』がビル・エモットではなく、ヘミングウェイってのがミソで、そのタイトルの解釈が“なんだかんだあっても、それでも明日は来る”という虚無感というか無常観みたいなものを表したのであれば、それはそれでおもしろい、けど。
年賀状を出さないので
数年前から年賀状を辞めています、自主的に出すのは。
だって、必要な人はメールアドレスを知っているか、ソーシャルネットワークとかでつながっているもの。
それに年賀状を書く時間が本当にもったいない。
もともと、イベントとか記念日とかに無頓着ですからね〜。
お正月だからといっておせち料理を食べないし。おせち料理が好きじゃないので、好きじゃないものを食べるよりは好きなものを食べたいのです。
ただ、年賀状でしかやりとりのない人もいて、そこで近況報告もいただくのはありがたいし、うれしい。
なので、そういう方たちからいただいた年賀状には返信しています。
こちらの近況報告含め、きちんとご連絡するようにしています。
ほかに知り合いもいないとなると、これしか方法がないもの。
でも、こういう人はごくわずか。
いただいた賀状には一応お返事していましたが、一昨年か昨年からか、明らかに惰性でいただいている人には出しません。
にも関わらず、リストに入っているのでしょう、おざなりな年賀状が来るんですよね〜。
要らないんですよね〜。
賀状のやりとりどころか、話すこともないし、会うこともないし。
万が一必要があれば、今の時代、探せば辿り着けるでしょうから。
あと、仕事場と自宅を兼用している私は、住所といった個人情報をなるべく出したくないんですよね〜。
今年は引っ越しを計画しているのですが、移転届けを郵便局に出すか出さないか、迷うなぁ。
なので移転届けを出したくないけれど、肝心なものが届かなかったら困るからなぁ。
さて、どうしよう。
うれしい仕事始めの2020年です
年末年始は1週間ほど帰省したものの、うちはお正月らしいことをしない家なので(お節とか食べないし、かろうじてとりあえずお雑煮を食べる程度(私はお餅を好まないし)、ややのんびりの日々。
今回は、ラップトップと昨年後半ほったらかしにしていた領収書の整理、目を通しておきたい類書を読むのに時間を割いたので、やりとりが発生しない日常の延長といった感じで、
例年以上にお正月感がない状況だったせいか、
一般的な仕事始めもす〜っと移行できました。
そこで、うれしい連絡が。
ひとつは仕事の打診。
昨秋、初めてご一緒したところから。
年末に無事終了して、私のような制作の仕事をしていると、仕事=営業の部分が大きいので、次の打診をいただけるというのは、納品した仕事が及第点だった、ということでひと安心!
スケジュールが合わなくって今回は見送りでしたが、次回はぜひ!
もうひとつは、ていねいな新年のメールやメッセージをいただいたこと。
仕事のメッセージに添えて、ってのもあったし、
面識はほとんどないのに(お互いに相手の大枠の仕事内容を知っているので、リスペクトし、かつ気になっている、んだと思っています)、わざわざご挨拶をくださった方もいて、
こういう、ちゃんと私に向けて、というのはうれしいですね。
年賀状を出さないようになったのは、義理があまりに立っているから、もういいんじゃない、ってことでもあるんだろうなぁ。