書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

日々是勉強!の日々です

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イベントごととて何かするわけでなく、

いつも、いつもと変わらない日常を淡々と過ごしています。

そんな中でも、少しずつ変化はあるわけで。

 

私は紙媒体(メディア)で仕事をすることが多く、

ウェブの場合も、紙媒体主軸のウェブという位置づけがほとんど。

 

しかし、今年の下半期は、はじめからウェブメディアのみでガンガンりやっているところとのお仕事がいくつも。

 

 

紙媒体(メディア)の場合でも、出版と新聞の場合は違うし、同じ出版社でも編集部や、もっといえば担当者によってやり方は微妙に違う。

でも、場所は変われど、なんとなく共通事項みたいなものはあったりする。

 

はじめからウェブだけ、っていうのは、勝手がまったく違って、

もちろんやりとり上のこともあるのだけれど、

その最たるものは“文体”。

 

紙媒体の場合でも、その媒体によって文体は変えるのですが、

ウェブの場合の文体のあり方は、根本から大きな違いがあります。

 

紙媒体で身についた習性みたいなものがつい出そうになるけれど、

あっ、違う違う!と自分を軌道修正させています。

もちろん打ち返しで指摘されることもあるけれど。

 

 

変わらないようで、少しずつ変わっていて、

その度にいろいろ学べるのはありがたいなぁ。

そして、実践を通して初めて腑に落ちて、体で納得できることって多いなぁ。

 

 

こんな再会もあるんだ〜

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数カ月前に、面識はあったけれどちゃんと話したことのない人と会食する機会を得て、

「○○に行くといいよ。そこにヒントがあると思うよ」と。

 

へぇ〜、○○かぁ。

 

あっ、あの人も!この人も!とそこに縁のある人が思い出され、

そして言われたことが妙に響いて、頭をから離れず。

 

もちろん言ってくる相手にもよるけれど、聞いたときに拒否反応がなければ、私はするっと行動に移すタイプ。

が、このとき、体調は悪いわ、やること山積みだわ、ですぐに動けず。

 

そうして1カ月後、病院で「(いったん)もう大丈夫ですよ」と言われ、

すぐにもろもろを確認し、近々でちょうど体があく、それだけのタイミングで○○を訪ねたのでした

(そのため、その後、ぜいぜいいうことになったのですが)。

 

 

あっ、と思い出された○○に縁がある人の1人はそこに住んでいるわけではなく、

バタバタしていたので前日にようやくメールを入れたら、すぐにレスがきて、

○○に到着したら、先方にも話してくれていて、ウワァ、ありがたい! 親近感がぐっと増す。

 

その方は、仕事で2度ご一緒したことはあるけれど、

その方との仕事のダイレクションをしたのは、(私ではなく)クライアントさんがいらして、

そのせいもあって、仕事が終わったらあっさりさようなら。

 

でも一緒にいる時間のなかでは他愛ない話もするわけで、

その人が○○に縁があるって知ったのは、そんな会話の中。

そのときは深堀りするわけではなく、会話の流れの中でさらりと登場したにすぎなかったんだけれど、

その話を聞いたときに、行ったことはないのに、そこの風景が頭の中にふわ〜って広がって、

私の記憶装置は完全に視覚イメージだから(人の名前なんかも音ではなく視覚で覚えているので、書けるけど読めないこと、ままあり)、

その会話を交わした日からずっとしまっていたその映像イメージが、パンと蘇ってきたのよね。

 

 

こうやって再び、というよりもプライヴェートで初めてやりとりをして、

近況もいろいろ知れて(ちょうど○○についてのお仕事をなさったタイミングでなんという偶然!)、

精力的に活動なさっている様子に、うれしくなってしまった。

同時に、よし、私も頑張らなきゃ!って気にさせてもらえる。

外に向けてギラギラした感じじゃなく、自分の内でじわじわと、ね。

 

 

それにしても、久しぶりの人とこんな風につながることもあるんだねぇ。

 

 

そうか! 謝れなくなるのか

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私はフリーランスで、女性ということもあり(これは地域性が大きい)、いうこときけ!みたいな態度をとられることが少なくありません。

そういう態度の人は、男女問わず、たいてい同世代から上の人。

若い人では、ぐっとその比率は低くなるなぁ。

 

私は、発注する/される側、支払う/支払われる側はあるけれど、

いざ仕事の場では同じ土俵に立つので対等。

言うことはいうし、言われないとダメだとも思っています。

 

今どきの若者(でもない、のか)、20代後半〜40代半ばぐらいの人との仕事がぐっとやりやすいのは(私は50歳です)、

彼らもそういうフラットな感覚だから、だと思っていました。

 

確かに、そう、ではあるけれど、そればかりじゃないんだな、と気づかされたこと。

 

 

先日、30代半ばの方と食事に行ったとき。

お互いにマウンティングされる、という話題になったとき、

「役職というか肩書きがつき、それが大きくなればなるほど、謝れなくなるんですよね〜」と。

 

なるほど! ほんと、そうだわ!

 

それをマウンティングすることでごまかしているみたいだけど、

本人はそれで自分をごまかせても、他者には不快感しか与えなくって、しかも器の小さい人だなぁ、って飲酒を与えるだけだよなぁ。

 

自分が間違っていたら、一言、「違ってた。ごめん」って言えばいいわけで、

それに対して、責めるようなことはしないしする必要もないのに、

それでも謝らない、のは、

エライ(とされる。もしくは本人がそう思っている)立場の人間は謝るもんじゃない、ってどこかで思っているんだろうなぁ。

心にもない紋切り型の詫びと言い訳、そして嫌味をたっぷり言う人もいるよなぁ。

 

 

理不尽なマウンティングをされるのはまったく気分がよくないけれど、

反面教師にすることにしよう。

そして、これを連鎖することなく、自分のところで断ちたい、と強く思うのです。

 

 

あえて雪崩はそのままに

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ほとんど見ない資料をたま〜〜〜〜〜〜に引っ張り出すことがありまして。

先日もそんな状況に。

 

で、重ねてある資料の山の下にあって、

取り出したものを重ねていたら雪崩が!

 

ああああああ〜っ!

 

外出前だったのでそのままにしてしまいましたが、

これ、片づけろ!ってことだと思って、

何も考えずに元に戻すことはやめて、

まずは要/不要の見極めをしよう。

 

雪崩を見るとうんざりしてしまうのだけれど、

その原因を作ったのは、自分。

なので、なぜな雪崩が起こったか、と考えながら(←これが大事)、尻拭いも自分でするのだ。

 

手作り信仰は一体いつまで続くのか

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バタバタしながら、つけていたラジオを聞くともなく聞いていたので、

真意は違うのかもしれないし、間違った情報を受け取っているかもしれない。

 

それでも、耳に入った途端に「気持ち悪い!」って思ったこと。

 

“説得交渉には手作りのお弁当が有効”らしい。。。

 

 

うわぁ〜、勘弁してください!

 

手作り弁当で説得交渉なんて、するのもされるのも絶対に嫌だ!

本質とはズレたところで、そんな上目遣いの媚びたようなことはしたくないし

(交渉は、本質の部分でやりたい。ストレートに、が聞くこともあれば、外堀を埋めながら、ってこともある)、

そんなことをされたら、迷わず一蹴したい。

 

あのね、手作りが気持ちのバロメーターって、いい加減やめてほしい。

手作り信仰が根深いことに、ただただ呆れる。

 

 

手作り弁当って、まず、アレルギーや宗教的なこと、食の嗜好を無視。

そんなの、押し付け&迷惑以外のなにものでもない!

 

加えて、世の中には、人の握ったおにぎりが食べられない、お鍋を囲めない人もいるんだよ!

 

「わざわざあなたのために作った、その気持ちが受け取れないの?」

はただの一方的な感情表現で、押し売りだよなぁ。

 

見返りを求める、その根性が気に入らない。

人に何かをするときは、ただただ自分がそうしたいから、が理由じゃないの?

それで相手が喜んでくれれば、それだけでいいんじゃないの?

それを説得交渉に材料に使うなんで、言語道断!

 

条件つきの手作りは、迷惑以外の何物でもない。

 

 

勝手に手作りする分には文句は言わないけれど、他人を巻き込まないでよね。

 

はっきり言って、手を揉みながら手作り弁当をもらうよりも、「これ、賄賂。好きなものでも食べて!」と現金をもらう方がよっぽど気持ちいいです。

 

 

ちょっと話が反れますが、私は温泉とか公共のお風呂がとても苦手です、というより悪夢です。

そもそもお風呂が苦手ってのもあるのですが、

知らない人と裸で同じ空間にいるってのが本当にダメなのです。

 

なので、裸の付き合い、とか、同じ意味合いでしょう、同じ釜の飯を食って、みたいなことを言われると心がざわっとするのです。

 

手作りイコール愛情のバロメータとはまた違う話けれど、こういうウェットな感覚って、私は苦手だな。

 

あった、あった、ありました!

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私は取材&打ち合わせ時に無印良品のノート・6mm横罫、A5・B罫・30枚・糸綴じを、おそらくここ20年ぐらい愛用しています。

以前はファミリーマートでも取り扱いがあったし、5冊パックで売っていたこともあり、(勝手に)定番と思っていて、無印良品に行けばいつでも買える、と思っていました。

 

しかあし、先日のこと。どこを探しても、ない、ない、ない。

店員さんに聞くもその店舗での取り扱いはない、周辺の店舗も同様、と。

ショックを受けて、「えっ、生産中止ですか?」ときくと、「いや、そういうわけではないと思います。在庫がない、ということかと」。

オンラインでも在庫なし、アスクルでは無印良品の取り扱いはあるもののこのノートはリストになく、本当に在庫切れなんだ〜、と肩を落とし、

とりあえず似たノートを購入して、急場をしのぎました。

 

そのあと、遠出をしたときなどに無印良品をチェックしたけれど、やっぱりない。。。

 

とりあえず買った似たノートは悪くないけれど、でもやっぱりしっくりこない。なんだか心もとない。

 

 

諦めモードにいたけれど、先日、ふと、そろそろ入荷されてるかなぁ、と思って無印良品に出かけたら、

あった、あった、ありました!

もうこういう思いはしたくない! 10冊も20冊も買いたい! そんな衝動を抑えて、3冊購入。

 

 

いつも使っている身近なものが姿を消したときは軽いパニックになるなぁ。

代替のものに切り替えられることもあれば、なかなか移行できないものもある。

この無印良品のノートは完全に後者。

もはや同士。このノートであるかないかで、取材や打ち合わせに向かうときの安心感が違うもの。

 

 

“ぼっち”とか、“ひとりでも”とか、大きなお世話だ!

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クリスマスまで1カ月を切りました。

この時期によく見られるのが、どう過ごすか、って話題。

 

私は、いつもと変わらない日常を淡々を過ごし、人生の大半で、特に親元を離れてからはほとんどの年でそうなのですが(パートナーの有無に関わらず)、

すると、かわいそう、と思われることが少なくないんですね。

憐れむ気持ちで「だったら、うちにいらっしゃい」と招待され、ごちそうにありつける!と出かけたこともあるのですが、

困るのは、“ひとりでかわいそうな私”という自虐キャラを演じないと納得してもらえないことです。むぅ。

 

もちろん、招いてくれる側はまったくの好意で(クリスマスにひとりなんてかわいそう!)、

だからこそタチが悪いとも言えるのだけれど、

こちらとしては、ぼっちも、ひとりで平気といった強がりではなく、

無頓着というか、あ〜、クリスマスね〜、ぐらいの感覚なので、

憐れみの視線を向けられると、なんだかなぁ、という気分に陥ってしまいます。

 

誕生日も同じ、私の場合。

特に何をするわけでもされるわけでもなく、いつもと同じ。ただ淡々といつもの1日として過ぎていく。

 

 

ひとり暮らしで死んでしまったときに、孤独死という言葉が使われることに代表されるように、

ひとりでいる状態を孤独、って表現するのは違うんじゃないかなぁ。

 

ひとりよりも、ふたりでいるときや大勢に囲まれているときに感じる寂しさの方がずっと孤独なんじゃないの。

 

ひとりでいる、ってのはただの見た目であって、心の状態とは違うんだよね。

ひとりでも心豊かな状態っていくらでもあると思うんだけど。。。

 

 

まあ、私の場合は、完全に内向型なので、物理的にひとりの状態がラクってのはあるけれど、

そういう人、決して少なくない、と思う。

 

“ぼっち”とか“ひとりでも”とか、そういうひとりは孤独、ひとりは寂しい、というモノサシが前提って、単身世帯の割合が多い今、もうやめた方がいいんじゃない。