これでいいんだ、とホッとした件
私は、今がいちばんいいと思っていて、それを踏まえて未来の話をするのならともかく、過去を振り返って懐かしさに終始する、みたいなことは好きじゃない。
かといって、別段、過去を否定するわけでなく(どうして否定できよう、その積み重ねがあって今があるのに)、通過点として捉えています。
そんな性分で、同窓会とかって積極的に参加することはなかったし、かといって積極的に不参加を決め込むこともなくって、
時間の経過とともに人は変わるし、昔のことが薄れるのは当然、ぐらいに思っていたところ、
SNSの発達などで、数年前に高校時代の同級生とつながったことをきっかけに、同窓会にも参加するようになったばかりか、同窓会誌に寄稿まですることに。
あれまあ。
まあ、過去のあれこれに淡白ではあるのだけれど、連絡を取り合わなかった期間を経て、今つながっているのは、何かの縁だし、せっかくなので、人として協力できることは協力しましょう、ぐらいのスタンス。
もっとも寄稿については、同級生のひとりが推薦してくれたみたい。
私はフリーランスだし、結果としてこういう場がPRになるのもいいんじゃない、って思ってくれたみたい。
で、その同窓会誌が送られてきて、
B5サイズ、144ページ(9折)、厚さ1.5cmもの立派なものでびびった!(笑)
そんなわけで、私が綴った内容はとりつくろうことは別段しなかった。
まあ、とりつくろったり、すりよったりしたところでねぇ。
こういう場なので、 “嗚呼!素晴らしき、高校時代”みたいなものが多くなるのは、まあ、そうだろうな〜、と思っていたのだけれど、
中には、「高校時代の記憶がない」「現役生だったときは高校が合わなかった」みたいな声もあって、いいなぁ、と感じました。
見方によっては否定的とも思えなくもないわけで、そういう姿勢がいい、という意味ではなく、世の中にはいろんな人がいるわけで、そういう人たちがちゃんと自分の声を寄せ、ちゃんと掲載されるところが、いいなぁ、と思ったわけです。
いろんな人がいて、受け止め方もそれぞれなのは当たり前だから。
もちろんもともと思慕のような感情を抱いている人もいるけれど、
こうときっておそらく、どうしても、いいこと、っていうのかな、こういう場では、こういう声が求められる、みたいなところに無意識に引きずられてしまうことは往々にしてある。
それが、そうではじゃない人もいるじゃん!ってところに安堵感を覚えた私です。
そのひと手間が大手間なので
最初は2回に一度、今は整髪料を使った時以外は、
シャンプー、コンディショナーを使わない湯シャン生活です。
体を洗うのも、石鹸を使うのはごくたまに。
その代わり、なのか、ときどき湯船に浸かるようになりました。
それは、なんか詰まっている感じがするな〜、なときに体の汚れを浮かすようため。
なので、湯船の中で体を洗い、髪(というは頭皮)を洗い、をしているのです。
シャンプー、コンディショナー、石鹸をあんまり使わない生活なんですよね、今。
すると、これらを入れていたカゴって必要なのかな、ってことが頭をよぎり、捨てました。
日用品のストックを入れておくところにしまい、使うときだけお風呂に持っていく。
これが快適!
掃除のたびにカゴをずらして、入れていたシャンプー、コンディショナーもいったん出して、拭いて、をやっていたのを、する必要がなくなった。
お風呂の掃除がぐんとラクになったな〜。
マメな人にとっては、そのくらい、かもしれませんが、ズボラな人間にとっては、そのひと手間が大手間なんですよね〜。
それでやる気が失せて、だったら(?)やんない、の悪循環になる。
引っかからずにスムーズに物事が運べる環境を作るのが、部屋をキレイに保つ要因のひとつなんだな〜。
妙に納得してしまった!
これ、本当にそう!(↓)
脳で食べる、っての、よおおおくわかる。
もっとも私の場合はダイエットとは逆で、
下見とか取材とかで食べることがつきまとうわけですが、
この時にものすごく食べるんだな!
もちろん普段も食べる方ではあるのだけれど、
仕事絡みの食べ方は、食べっぷりが相当がいいらしく、
自分でも自覚しているけれど、周囲の目にもそう映るみたい。
お店によっては、これも食べる?あれも食べる?と
予定外に出してくれること、少なからず。。。(ありがたい!)
で、このときって、空腹だから食べているわけではないんですよね。
脳で咀嚼して、脳に記憶している、って感じ
(なので、メモをとらなくても、写真を見たら一気に味や香りが蘇る)
でもって、ひとつの料理なら最初の味わいが持続するかどうか、コースやセットなら一連の流れを確認するためには、完食しないとわからないので食べる。
でもって、好奇心がフルなので、それを満たすためにも追加でも食べる。
このときって脳で食べているから、お腹が満腹かどうかには神経が回っていないんですよね〜。
もっとも鈍感になっているから量を食べられる、ってのはある。
これの逆を利用すれば、ダイエットになるのかぁ。
脳を洗脳する、っての、わかるなぁ。
ダイエットしたい、というよりも、
食べない方向で脳を洗脳して、果たしてどうなるのか、自分は自分の脳を洗脳できるのか、試してみたいなぁ。
本当にありがたいなぁ、としみじみ
8年前の東日本大震災の後、長年過ごした東京を離れ、もちろんそのときのタイミングもあって、見事にぱったり縁がなくなった人、新しく出会った人など、周囲の人の入れ替わりが起こりました。
そのなかで、心底ありがたいなぁ、と思うのは、普段はやりとりをしないのだけれど、ときどき東京からわざわざ連絡をくださる方。
私の生活は仕事を中心に回っていますから、はっきり言うと、仕事関連の連絡をもらえるのは、本当にうれしいのです。
遠隔であるにも関わらず、そこに配慮した依頼をいただくこともあり、それはもう、感謝してもしきれない。
なかには、仕事の依頼ではなく相談、ということもあるのだけれど、それでも、思い出してもらえるだけでも、ありがたいなぁ、と思うのです。
先日も、久しぶりな方から連絡をいただきました。
思い出してみれば、そこの制作部や会社の方とは、年に一度とかの割合で連絡をもらい、直接私が知り合いでない社内の別の方に紹介してくださったり、ってこともあり、しかもいつも気持ちよく仕事ができるので、本当にありがたいなぁ、とつくづく。
今はネット環境などでずいぶん便利になったとはいえ、
それでも物理的に離れると、やっぱり心理的に離れる。
それは、当然のことと捉えています。
私だってそんな側面はあるし。
でも、それをものともせず、コンスタントにコンタクトをとってくださる。
逆の立場だったらできるかな? 自信ない。
なので、それをやってくださる方々には、感謝しかないのです。
本当にありがとうございます!
何かがあったわけではないけれど
謙虚さが足りないんじゃないか、ってふと思う。
何かきっかけがあったわけではない。
ボタンのかけ違いをなるべく減らすべく、言語化して説明しようとして、
そこで言うのは技法的なことではなくって考え方とかコンセプトとか、なぜこれをするのか、その理由の部分。
軸さえブレていなければ、むしろあとは自由にやってもらっていい、と考えているから。
任せる部分はできるだけ任せたいけれど、軸がブレたら元も子もなくなるので、
(こうしろ!ではなく)こういうコンセプトでやっているからそこの部分だけはしっかりさせて、あとはよろしくね、で、
ニュートラルなつもりで依頼するのだけれど、そう受け取らない人もいるだろうなぁ
(人の受け止め方は、こちらではどうしようもないことなのだけれど)
。
というのも、メールとかで文言にすると、自分がやけに論理が過ぎるように思えるんだよなぁ。
言葉が多い、というか。
そこが、自分が謙虚に見えない理由かもしれない。
いや、だからどうだってことではないんだけどね。
グレーゾーンにも届けたい!
ここのところ、Creepy Nuts、特にDJ松永がお気に入りの私です。
音楽、も、と言いたいところですが、何より、喋りが。
名前のDJは、ラジオDJのDJなんじゃないか、って思えてくる。
で、この放送は聞いていないのですが、書き起こしを読んで、そうなんだよなぁ、と深く共感してしまった(↓)。
そうなんだよね〜。
もともと好きで知っている人は、本当にありがたい存在だけれど、発信する側はもっと広めたい、って欲もあるし、持続させる、ってことを考えると、これからファンになってくれそうな人にどうアピールするか、も考えないといけないのよね
(好きなことをやって好きな人だけに届けられればいい、という考え方もあるけれど、商業ベースでいったん世に出た以上は、支持/不支持の両方を巻き込みながら、より多くの不特定多数が対象になる、と私は考えているのだ)
アウェイとまではいかないけれど、あらかじめわかっている人が対象でない場合は、よくわからないところに乗り込んでいくわけで、予測不能なことがたくさんあるけれど、新しいお客さんを獲得するチャンスでもある、と。
そのやり方は人によっても、だし、どこに出没するかによっても、だし、あと時代の空気感、みたいなものもあるし、その都度変わるから、これ!という明確なひとつの答はないのだけれど、それで上記の書き起こしを読んでいると、敷居を低くして、とっつきやすく、というアプローチは基本的な考え方なんじゃないか、って思えます。
ありがとう、DJ松永!
なるべくまっさらでいたいなぁ
20歳過ぎの若い方と話していたときに、その方が言ったこと。
出先でお昼どきになり、ふと見れば行列のある店が。
スマホでチェックしたら老舗だとわかり、値段もさほど高くない。
時間もあったり、好奇心もあって、行列とはいえそこまでではなかったし、ピーク時は過ぎていて出てくる人がちらほらあったので、入ってみた、と。
どうだったの?と聞くと、
私の口には合わなかった、と笑いながら返答。
斜に構えた風でも、遠慮がちでもなく、ごくごくフラットな言い方で。
これにちょっと感動してしまったのです。
なんというのかな、その素直さに。
なんだろう、と思って入った、っていうのも、食べてみたら、ちょっと違うなぁ、というのも、変な先入観とか誰かの価値観じゃないんですよね〜。
本来はこうなんだよなぁ。
情報ありきだと、付随する情報や、誰かの物差しや価値観も入ってきて、知らず知らずのうちに、前もって“こういう店”というのができあがるから、訪ねたときにどうしてもバイアスがかかるのよね。
なるべくまっさらありたいなぁ。
その人の言葉を聞きながら思ってしまった。
仕事だと下調べするのも仕事の一部、だけれども、まったくのプライヴェートでは前情報を入れない、を徹底してみようかな〜。
だいたい、50年も生きていると、見た目というか佇まいで、よさそうじゃないと判断して、当てずっぽうで入った店はだいたいアタリ!だもんなぁ
(アタリもハズレもさんざん経験してきたからだろうけど)。
それでいて、新発見することも少なくないもんなぁ。
若者の姿からは学ぶことばかりだよ。