いつまで若者いじり(いじめ?)をするつもり?
入社式、入学式、があり、街を歩けば、当事者たちの初々しい姿に出会います。
ぎこちなさがかわいらしくもあり、微笑ましくもあり、愛おしくもあり。
一方で、入社式や入学式のニュースを伝えるにあたり、“黒一色”のスーツ姿を映し出し、没個性を見せる、そしてわざわざ、そういう画一化された写真を掲載する、ってのを見て、
あ〜あ、またかよ、
な気分に陥ってしまいます。
“今どきの若者は”を匂わせて、その背景に“自分たちの頃はよかった”を漂わせる、あの感じ。
この時代、さすがにはっきりと“今どきの若者は”を発言するのは憚っているのかもしれないけれど、根底に流れるものは同じ。
こうすることでしか肯定感や優越感を味わえないのかな?
というか、そもそも、こういう若者を作り出したのは誰なのか、って話。
髪の毛を緑に染めて、真っ赤なスーツで臨む人間を、果たして企業や学校は「君、おもしろいね!」って採用/合格にするのか、って話。
一体誰が無難な着地点としての服装の指導をするのは、って話。
それと、かつては今のように、洋服の量販店はほとんどなかったよね。
スーツが手頃な値段でさらっと買える時代じゃなかった。今はレンタルもあるだろうし。
今の子たちは賢くって堅実だから、黒いスーツがあれば、冠婚葬祭も着られる、ってことも考えているのかもしれない。
そもそも、時代は変われば目に映ることも価値観も変わるんだよ!
“今の若者は没個性”って、そういう単純な話じゃないと思うんだけどな。
上澄みの事象だけすくって“ほらみてごらん!”をするのは“してやったり”で気持ちいいのかもしれないけれど、考察とか検証をしないのであれば、無意味だよ。
もっともそれをすれば、言い出した本人にブーメランとして戻ってくるんだけどね。
とにかくショックが大きすぎて広すぎて
4月11日の夜が更けゆく頃、ぱっと開いたFBのニュースフィードに各メディアからのびっくりするようなニュースが、次々と上がってきて、言葉を失ってしまいました。
いや、おそらくいつかは来る瞬間だったんだけど。
ジュリアン・アサンジュ逮捕!
ウィキリークス創設者で、2012年からはロンドンのエクアドル大使館で保護されていた人物です
(エクアドル大使館はハロッズの裏側(南側)にあり、何度か見に行ったものです)。
ことの経緯はググるなりしていただくとして、
ジュリアン・アサンジュ逮捕については、英、仏、米のメディアが速報として伝え、その後もあれやこれや報道しているのに対し、日本のメディアではリアルタイムでほとんど報道されず、報道されてもさらっとヘッドライン程度で、これにひどくショックを受けたのでした。
逮捕から数日経っても、従来の大手メディアではヘッドラインぐらいしか見ない。
一部のオンラインメディアで多少なりの時系列を取り上げる程度(検証ってものをしないのだろうか)。
以上は、私の見聞する範囲において、だけれど。
ううううう〜ん、いやぁ、これって、ものすご〜〜〜〜〜く大きな問題はらんでいる、と思うのだけれど。。。
人権とか、表現の自由とか、知る権利とか、国の利害関係とか。。。
チェルシー・マニングもエドワード・スノーデンも、日本ではほとんど取り上げられない。
既存のメディアにとっては、当局同様、彼らは敵なんだろうけど、それはそれとして、ニュースでほとんど触れないのは異様に思えて仕方がない。
海外メディア(私の場合は、英、仏、米、露)で連日ニュースを目にするたびに、
他人事と思っているのか、あえて押し黙っているのか、沈黙を続けるこの国に改めて不気味さすら感じてしまいます。
原体験が潜在的に残っているのかも
“おかたし”真っ只中の私。
今週手放した、おもなものは以下のとおりです。
・食器 3個
・鍋 1個
・HDD 1台
・デジカメ 1台
・財布 1個
ほか、台所まわりのあれこれ。
衣・食・住の部分が随分すっきりして見渡しがよくなり、
あれっ、これ何?ってものが目につき、それを処分。
財布は3代前のもの。折り畳むタイプで、海外では普段使っている長財布を使わず、荷物をなるべくコンパクトにしていて、それは財布も然り。
でも、もうひとつ折り畳むタイプの財布を持っていて、最近使うのはもっぱらこちらばかり。
一緒にいろんなところに行ったなぁ、最後にカビを拭き取ってお疲れさま、でさようなら。
HDDは先月ご臨終を迎え、データ復旧が終わったので、おつとめご苦労さま、と処分。
私の秘密をいちばん握っていたのが、これなんじゃないかな。
そして、デジカメ。
2014年9月、イギリス・ライを訪問中のこと。撮った画像に白くベールがかかるようになり、途中からついに真っ白に。
ロンドンに戻ってその足でPC Worldに駆け込んで、今のを買ったんだった。
そのダメになったデジカメをついに処分。4〜5年のつき合いだったな。
今週の気づき。
携帯できるデジタル・ガジェットが捨てられないことに気づきました。
データがあるから? 持ち歩いて愛情が詰まっているから?
以前のガラケーでしょ。2000〜2001年のイギリス滞在時に使っていたガラケー、そのあと現地を訪問した時用に使っていたシンプルなガラケー(日本のような契約スタイルでなく、機器だけ買ってトップアップして使えたので、重宝しました。いつからか半年だったか一定期間使っていないと手続きと料金がかかるようになり、同時期にスマホに移行したから今は不要(私は携帯電話もスマホも、いつでもどこでもつながるのが好きではないので、スマホ・デビューは遅かった)。
今の前に使っていたラップトップと、その前に使っていたラップトップ。
データは移行しているんだけれど。。。
ディスクマンもまだあるし、テレコ(ミニ・カセットテープレコーダー)もある(文字量の多い取材はこれで録音していた)。
うううううう〜ん、なぜだろう?
マックのラップトップは歴代の箱もごていねいにあるし。。。
な〜んて書いていたら、私にとって初代の、1995年に買ったPerforma(モデムを標準搭載するようになった、Power Macintosh)もが懐かしく思い出される。
キーボードをタイプする、ちょっと重い感じがよかったし、念願叶って手に入れたMacのこの小さな画面はWindow to the Worldなんだなぁ、とネットにつなぐたびに感慨にふけったものです。
このPerformaは、ダメになったときに、欲しい!というマニアがいたのであげたのですが、そうでなかったら今でも持っていたかもしれない。。。
ということは、携帯用デジタル・ガジェットだけじゃない、ってことか。。。
CDプライヤーを初めて手に入れたときも、光に反射するプリズムにワクワクしたんだよなぁ。
そういう夢見る未来が詰まったでデジタル機器の原体験が、それは決して明るいことばかりではなかったけれど、今も一緒にいると、明るい展望を描けるような気がするから、処分するのを無意識に避けてきたのかもしれない。
なぜだろう? もう少し考えてみます。
この期に及んでレコードが欲しくなる!
今年に入っておかたしを進めている中で、
生活に密着した、衣・食・住については第1ラウンド終了。
迷うものは保留にしながら、とりあえず即判断できるものとはさようなら、をしました。
衣・食・住については第2ラウンド、そしてケオスの最大の要因、趣味/嗜好および仕事(かぶる部分多い)に本格着手!で、
以前の引っ越しでドカンと整理した音楽もの(レコード、CD、雑誌、ファンジンetc)は手持ちが少ないから、まずはここを見直しましょう、と、
レコード)アルバム)をチェック。
厳選に厳選したこともあり、自分を作った要素でもあり、嗜好もそうそう変わっておらず、これは減らせないなぁ。
手放せるのは、頑張って2〜3枚かも。
それどころか、、、
この期に及んで、レコードが欲しくなってしまったよ!
おかたしをしている中で、決別するものばかり、減らす方向で動いていたのに、増やす、に気持ちが移るなんて!
なんでレコードが欲しくなるんだろう?
私、前の引っ越しのときにレコードプレイヤーも手放した(譲った)ので、自宅でレコードが聴ける環境ではないんですね。
しかも、今、音楽を聴くのはデジタル一辺倒になっちゃったし。
ということは、音源としてレコードが欲しいわけではないんですよね。
なんだろう?って考えた結論は、音楽を入り口とした、一種のアート作品というか見ていて触って眺めて気持ちを落ち着かせる、実感としてのモノとして欲しいんだなぁ、ってこと。
今、レコードやアナログの売り上げが増加しているんですよね(日本でも、なのかな)。
もちろん音楽業界全体としてのシェアは少ないことに変わりはないけれど、データとしてちゃんと示されている(どこかで見たんだけどな)。
なんで今、アナログなんだろう?
途中から移行した世代と違って、デジタル(ネット)ネイティブは意外とフィジカルなものが好きなのかもしれないし、
そもそもレコードやカセットといったアナログ・パッケージを今や音楽というジャンルで括ってはいけないのかもしれない。現に私が音源として欲しているわけではないように。
これ、音楽だけじゃないかもね、本や雑誌も同じかもね。
実際、おかたしをしていて、単に読み物はデジタルでいい!とつくづく感じ、
フィジカルで欲しいのは、持ったときの重さやページをめくる触感、モノとして、そして開いた時に視界に入った時の心地よさだったりなんですよね〜。
なぜアナログに惹かれるのか。
その理由は、ここ数年、私が考え続けている、本来の読み物としてではなく、本というパッケージや役割でできることをもっと考えたい、ということに対する答えと根底は一緒なのかもしれない。
なわけで、今、いちばん欲しいレコードはニュー・オーダーの『Power, Corruption & Lies(権力の美学)』(FACT 75)です。
ピーター・サヴィルの研ぎ澄まされたデザインは、今見直しても、ハッとしちゃうなぁ。
(もっとも私に似合う雰囲気とはかけ離れているので、手に入れたところで、部屋に飾るまでにはいたらないだろうけど)
淡々と進んで淡々と終わった
手がけた書籍が5月に発売となります。
7日配本なので、書店に並んだり、オンライン注文の到着は10日頃になるかと。
この本『増補改訂 イギリス菓子図鑑』は、自著であり、“増補改訂”とあるように既刊の『イギリス菓子図鑑』に、64ページ増、32のアイテムを追加し、135のイギリス菓子を紹介したもの。
昨年秋に企画が決定し、やろうと思えばもっと早くできなくもなかったのだけれど、出版スケジュールなど諸々の状況で5月発刊に落ち着く。
“増補改訂”で、見通しが立つ、状況が読める、こともあって、淡々と進んで淡々と終わったなぁ、という印象です。
300ページを超えるので、やることはそれなりにあったのだけれど、気持ちが全然バタバタしなかった、というか。
通常は一から(ゼロからってこともあるな)、シリーズ化しているものでも、やっぱり手探りで進める部分が大きく、思いもかけないことが発生したり、制作の現場が多少なりともてんやわんやです(私の指揮の場合は、少ない方ではあると思うけど)。
そういう波がほとんどなく、穏やかに来て穏やかに去っていった。
本が出ることがピンと来ていないのかもしれない。
実際に出来上がったものを手に取ったら、実感が沸くのかなぁ。
振り返れば、とても重要なアドバイスをもらっていたんだな
移動の多い人生を送っているせいか。帰属意識が薄い。
郷土愛とか愛校精神精神みたいなものがきわめて希薄です。
なので、過去のことはあくまで過去の通過点で、それよりも今、そして未来のことを考える方がワクワクがたくさん!なので、あのときこうだったああだった、みたいなことをしません。
ここ数年、SNSのおかげで中学や高校の同級生とン10年ぶりにつながることがあります。
今年は、私の代が高校の同窓会の当番期ということもあり、連絡を取り合うこともしばしば(積極的に協力していないけれど。。。ごめん!)
それはそれで、新鮮な楽しさがあります。
それぞれが違う世界にいて、よくわからないからこそ、純粋によさを見いだせるのかもしれません。
でもって、私は高校は越境入学だったので、集まりとかに顔を出すと、はじめまして!な人もいて、それもまたおもしろい。
先日、同郷の方にお目にかかる機会があり、その方がご自身の出身学校に尽力していらっしゃることから、自然と出身高校はどこですか?と。
「○○です」と答えると
「バンカラですね!」と言われ
「よく言えばそうですね。バンカラというか自由というか。野放し、とかって言われていましたけど」
「ははは」(同意の笑)。
そうなんですよね〜。
今は違うかもしれませんが、自由というか野放しというか。
なので、今、話題のブラック校則とかって聞くと、昭和の最後らへんで自由というかのどかというか、な高校に通っていた自分の頃と照合して、時代は逆行しているのか?と驚いてしまうわけです。
もともと、この高校に行くことを考えていたわけではなかったんですよね。
中学2年の終わりか3年に上がった頃か、担任ではなく、先生になって2年目とかの若い先生と話しているときに、
「あなたは○○高校(そのとき、ぼんやりと、行こうかな、と思っていた高校)は向いていない。△△高校の方が断然合っている」と言われ、
その先生が○○高校出身で、卒業してまだ数年だったこともあり、学校の事情もわかっているでしょうから、妙に説得力があり、彼女にしてみれば、進路指導的な意味合いはなく、他愛ない会話のなかでぽろっと発した言葉だったのでしょうが、そのことが頭から離れず、向いている、といわれた△△高校に行くことにしたのです。
その△△高校で進路相談の際、
「(本や雑誌の)編集の仕事をしたいの? だったら、とにかく東京に行きなさい。ほかの産業と違って、出版社のほとんどは東京だから、その場所にいないことにはチャンスはつかめない」と言われ
(実際は、東京以外でもできないわけではありません。でも、競争があって切磋琢磨し、よりよいものを作る、新しいことに挑戦できる環境は圧倒的に東京です。
それ以外の場所でやろうとすると、タウンガイドや地方史以外は、よっぽど才能があるか、強い意思と意志がないと、むずかしい。
人間は環境に左右されるので。少なくとも、私は)、
本当は、その進路相談のメインは大学どうする?な話が主軸だったものの、東京に行きなさい、が呪文のように頭から離れなくなり、
へぇ〜、そうかぁ〜、と、深く納得し、それまで関西の公立大学を受験するつもりだったのに、東京に行くなんて考えたこともなかったのに、とにもかくにも東京だな!となったわけです。
結果、進学高校の選択も、東京の大学に行く選択も、まったく正しかった!と思っていて
(自分の意思を貫いたとしても、やっぱり正しかった、って思っているかもしれないけれど)、
あのとき、アドバイス(おそらく与えてくださった方々は、そんなつもりはなくって、ついで、ぐらいに発した言葉だったとは思うだけれど、それが刺さった、ってことは、やっぱり私にとって必要としていた言葉だったんだろうな、と思うわけです。
素直に従い、それを許容してくれた家族(この場合は親ですね)にも感謝!です。
その言葉を生かすも殺すも、自分次第だけれど、
今、こうやって肯定できる(まあ、何が起こっても、何を選択しても肯定するかもしれないけれど)というのは、ありがたいことだな、と思うのです。
そして、こういう大事なアドバイスをくれた先生方にも感謝!なのです。
人生の重要な局面で、核心をついたアドバイスをもらっていたんだな、と感じるのです。
人は環境に適応するから、環境を変える
“おかたし”を粛々と進めており、今のやっているのは“処分する”が多いのですが、
壊れたから、使わないから、という理由もありますが、酷使してすっかりくたびれたから、さようなら、することもあります。
酷使してすっかりくたびれて処分するにあたり、現時点では、なければないで、が大半ですが、
稀に必需品であればその代わりが登場することもあります。
台所の水切りカゴがそれ(洗った食器をおいておくやつね)。
もう少し時間が経てば、水切りカゴ自体が要らない、になるかもしれませんが、今はまだ必要。
(もしかしたら、ずぼらなので、ウォッシュディッシャーを購入してその役割を担わせる。
ただし、私はガスが好きなので(電気はどうしても、へなっと弱い)、オーブンもディッシュウォッシャーも乾燥機もガス源のビルドインが理想。
となると賃貸だと現実的にむずかしい)
17年ぐらい使ってくたびれてしまった水切りカゴの代わりに登場させたのは、
ロンドンのHabitatで目撃するや、一目惚れして連れて帰った赤い水切りカゴ
(私ははっきりとした赤い色が好きなんです。元気になれる)。
これがそれまで使っていたものよりひと回りもふた回りも小さかった!
おまけに浅い皿をおくにはいいけれど、お茶碗とか深みのある食器をおくことがメインじゃないので、はっきり言って使い勝手はよくない
(よくよく考えてみれば当然だけれど)。
当初は、思ったほど洗い物がおけなくってまいったなぁ、と思っていましたが、
その分、マメに洗うようになりました。
そうしないと物理的に厳しいんだもん!
私は水回りが汚れているのが好きではないので、
シンクに洗っていない食器をずっとおきっぱなし、ってことはないのですが、
それでも、今までよりもぐっと少ない洗いもので水切りカゴがいっぱいになるので、
なるべくその都度その都度洗うように、無意識のうちにするようになりました。
無意識、ってことは、適応した、ってことよね。
人間って環境によって行動(そして思考)パターンを変えるんだなぁ。
容れ物から自分のあり方を整える、って大事。
というか、現状で主体的に自分を変えようとすると、それまでの習慣に抗うことになるから、強固な意志とエネルギーが必要。
でも、環境を変えると、その場で過ごすには適応せざるを得ないもんね。
どうしてもダメな場合は、本当に合わない、ってことなんだろうけど、たいていは、最初こそ違和感があるものの、自然となじんでいくのかもしれない。
自分を変えようとしたら環境を変える、ってことなんだなぁ。
モノがあふれるのは、ムダにスペースがあるからで、やっぱり次は狭いところ、具体的には20平方メートル以下のところに住もう!と決意を新たにする次第です。