食べることは、楽しい! おもしろい!という視点から
私の仕事のひとつに食関連の編集、ダイレクション、ライティングなどがあり、
企画・構成、指揮ということも少なくなく、
これらの打ち合わせやすり合わせ時に、
細かいことの確認ではなく、
基盤となる大きな企画の話だからってのもあるのですが、
情報交換みたく、話が脇道についつい逸れてしまいます
(といっても、これも含めて大きな意味で企画会議なので、
新しく何かが生まれるってこともあるんですけどね)
私自身は、矛盾を抱えている人間で、でも、それも含めて現実、と捉えているため、
食べることが“健康や生活に大事””ていねいにいたわりましょう”
(挙げ句、誰かのため、とか、家庭とかのイデオロギーが入ってくるのは、なんだかなぁ、な気分に陥る)
みたいな方向にばかり向かうのは、非常に息苦しい。
いつもいつも栄養バランスを考えて手作りでていねいに、なんてできないもん!
こないだもやってしまったけれど、市販のポテトチップスを一袋あけたり、
ときどき無性にジャンクフードが食べたくなって食べるし、
コンビニの食べ物のすごさ(この値段でこの味とは!)に驚愕したりもする。
食べれば排泄もする。
日々綿々と続くことは、きれいごとや理想だけではやっていけないわけだし。
(排泄をきれいじゃないことかどうかの定義はいったんおいておきます)
これもいいな、あれもいいな、
で、いいんじゃないか、って思っています。
それを取捨選択することが楽しいわけで。
むしろ、選択肢の多い今、いかに選ぶか、が大事なんじゃないか、と。
そんなわけで、ていねいな暮らしとはほど遠く、
そのときにそのときの気分で食べたいものを食べるのがいちばん!
(それがファインダイニングでもファストフードでも)
だって、それがまずが気持ちが満たされ、いちばんストレスが少ないんだもん!
で、ようやく、暮らしに密着した“マジメ”な食、もしくは飲食ガイドから、そればっかりがあり方じゃないんじゃない?
みたいな動きが目に見えるようになったのはうれしい。
それを象徴するのが「美術手帖」の“新しい食”特集だと思う。
ソッコーで買っちゃったもんね!
やっと、アートと食(哲学のようなもの)、を真っ正面から取り上げるようになったんだな、って。
「RiCE」もそんな動きのひとつかな〜、と。
こっちはストリートカルチャー的(って言えばいいのかなぁ)と食を掲げた雑誌。
切り口もだけど、圧倒的に写真の撮り方が全然違って、へ〜っ!なのです。
創刊からついつい毎号買ってしまう、という。ね。
先日も打ち合わせで、立て続けにこの2誌が話題にのぼり、
ぱらぱらめくりながらあーだこーだ。
これまでいわゆるレシピ本のほか、
食文化、アカデミックなものから日常を切り取ったものまでは散見されたところに、
エンターテイメントというかファッションというかアートというかがようやく出てきて、
こーゆーの自分ではやらないやり方だけど、
風穴をあけるような動きはバンバン登場してほしい。
着地点としては、だから食べることは大事にたどり着くのかもしれないけれど、
「美術手帖」も「RiCE」も日常で欠かせない食を、
ひとつはアートに昇華、ひとつは(ストリート)カルチャー視点で、
とっかかりは“食っておもしろい! 楽しい!”
これまでとは違う、ちょっとのぞいてみよーかなーみたいな、
違うところに入り口を作ったのがいい。
っと、ここまで書いたのが、実は2週間以上前。
昨晩、“「現代詩手帖」も食特集ですよ!”と教えてもらい、チェックすると、
ほんとだ! 特集タイトルは“詩と料理”。
早速ポチる。
届くのが楽しみだ〜っ!
個人的には、ガストロフィジックス(↓)がおもしろいなぁ、と思っていまして、
これ、たとえば“カトラリーは重い方がおいしさを感じやすい”といった学問のこと。
食の物理学、ガストロフィジックスはもっともっと探りたいなぁ、なのです。
モスバーガーで秋を感じる
ファストフード店ってほとんど行かなくなっちゃったけど、
それは別に好き嫌いの問題ではなく、ほかの選択肢が多いから。
仕事で飲食店の下見もあり、となるとなかなかたどり着けない。
そんななか、よく立ち寄るところがあります。
それは、モスバーガー(モスバーガーはファストフードじゃないけど)。
ハンバーガーを食べるわけではなく(ごめんなさい!)、
コーヒーチケットがあり、電源があり、なので、
微妙に時間があくときに利用するのです。
先日、席ではっと目が留まったのが、紙ナプキン・ホールダー。
秋なので、もみじ(&月見)イラスト。
そうか、季節によって変えるのか!
店によって違うけれど、モスバーガーは店頭に黒板があってメッセージがあったり、
店内にグリーンがおいてあったり、トイレも温かみがほんわりあって、
こーゆーの、和むなぁ。
ちょっとしたことだけれど、そのちょっとしたことで心地よさってぐっと変わるのよねぇ。
気づかない人は気づかないんだろうけど、
こういうのわざわざ声を大にしていう必要はないから、
気づかないぐらいでちょうどいいのかもしんない。
ダブルブッキングする人は、いざというときに平気で寝返る
がっちり仕事では、さすがにそんな経験はないのですが、
情報交換兼ねて、もしくは久しぶりに会いましょう!と食事だったりお茶だったり、仕事半分プライヴェート半分な場で、やる人いるんですよね〜。
ダブルブッキング
もろ時間がかぶる、ってことはないものの、
当日その場所に現れてから、こんなことを言ったりします。しかも悪びれることなく。
「ほかの約束があるから1時間もいられない」
「誘われたイベントがあるから、すぐに退席する」
だったら仕切り直しを提案するとか断れるとかすればいいのに。
もちろん、どう考えても大事な約束があれば、仕方ないのだけれど、
どうも話しぶりが、そうじゃない。
誘われたら、こっちも行こうかな〜、ってノリ。
食事兼ねてであれば、こっちはそれなりの時間、2時間とかみておくし、
もし予定が入れば、先に伝えておく、けどな〜。
でも、そういうことをしないで、悪びれもせず、時間が多少ずれているにせよ、
ダブルブッキングをして、
それを忙しいアピールなのか、ひけらかすのって、何だろう?
嘘でもいいから、どうしても外せない急用が入った、って言えないんだろう?
こういう人って悪い人じゃないけれど、事なかれ主義で誰にでもいい顔をしようとする。
なので、いざというときに、いちばんラクな方向へ流れる。
それはいちばんパワーを持っている人に従う、と言い換えてもいいかもしれない。
ということは、平気で寝返るし、平気で裏切る。
本人にとってはいちばんラクな選択だろうけれど、
そこにあるのは保身であって、本心ではない。
そもそも意思自体がないのかもしれない。
でも、そのことに本人はたいがい気づいていない。
むしろ周囲に配慮した、いちばん波風の立たない、ベストな判断をしたと思っている節がある。
なんでも、いいよ、いいよ、って言う人をやさしい、って評されること多いけれど、
果たしてそうかな?(私はそうは思わない)
単に判断できず、単に優先順位をつけられず、単にNOと言えないだけであって、だからこそダブルブッキングも平気なわけで、
いざというときにはまったく頼りにならないだろうなぁ、と思って眺めているわけです。
コンラッドもイシグロもイギリス人作家である
つい最近まで、ジョゼフ・コンラッドがポーランド出身って知らなかったんですよ。
私のなかでは、あくまでイギリス人作家という位置づけで、出身とか考えたことなかったので
(もちろん、作品にバックグラウンドは多かれ少なかれ反映されるわけだけれど)。
やっと読み直しましたよ、『闇の奥』。
20代に読んだ頃よりは、ずっとスムーズだったけれど、まだまだだなぁ。
もう一回読んで、次は原書にとりかかるのがよさそう。
カズオ・イシグロも私にとっては同じで、イギリス人作家で、
実際に作品を読むと、イギリスを強く感じます。
感じる、というよりは、理解しやすい、と言った方がいいかもしれない。
(そのバックグラウンドからイギリスを一歩引いてみていて、
同時にまた自身のアイデンティティーを求めているところがあり、
それが世界に訴える普遍性につながるのかもなぁ、と捉えています。)
ただねぇ、もうね、下品としか形容しようのない、
カズオ・イシグロがノーベル文学賞受賞後のこの狂想曲はいかがなもんですかね?
(村上春樹はどこへ行った?(笑))
・幼稚園(保育園)の先生に押し掛ける
・日本人として紹介(彼はイギリス国籍を取得したイギリス人です。イギリス在住日本人って(絶句!))
・英語がうまい(はあああああ? 当たり前でしょ? イギリスの英語圏で暮らしているイギリス人で母国語である英語で書いているんだよ!)
・村上春樹に影響を受けた(これをことさら強調するって何? 影響を受けた/気になる作家のひとり、ってことでしょ、絶対的に、ってことではなく)
必死で日本への紐づけして、えげつないこと極まりない!
(ここまでくると、カズオ・イシグロもさることながら、村上春樹も相当かわいそうである)
せいぜい、
“日本で生まれ、子供の頃にイギリスに移住。それが作品に反映されている面は否定できない”
ぐらいのもんで、それ以上でもそれ以下でもないんじゃないの。
日本でコンラッドを語るときに、ポーランド人作家と紹介したり、ポーランド人であることをことさら強調したりしないでしょ。
それと同じ、のはずなんだけれど、なぁ。
状況は、数年前に感じたよりも(↓)、確実にひどくなっているよなぁ。
こういう振る舞いって、明らかに、三流以下。下品そのもの。
話題になればそれでいいの?
個人ならいざしらず、メディアや国が率先してやっていることが、それを物語っていますね。
“絶望的”の極み、です。
雑誌が先か、付録が先か、いやそうじゃないのかも
いやね、毎日おしゃれするほどの気力はないけれど、
先日も久しぶりに下北沢を歩いて古着屋に入ってキャッキャ言ったし、
プロパーなアイテムの手触りのよさにすりすりしたくなることもあるし、
プチプラで安くてしゃれた商品があるのを見て驚くこともあります。
ただ、私自身ではまったく手にとらないんですよね〜、ファッション誌。
(人にどう見られるか、はもうたくさん! 自分が楽しければいい、のが大きな理由かも)
だから、疎いのだけれど、
そうか! 今だもって強いのね、宝島のファッション誌(↓)。
その大きな理由を“付録にあり!”と位置づけて紹介しているわけですが、
私自身は、付録とかおまけとか、一粒で二度おいしい、みたいなものを世の中にまったく求めていないので
(話が逸れますが、だから日本の大手メーカーの家電が嫌い! 多機能は要らない! 単機能で充分だ!)、
雑誌も付録も欲しい、って心情はよくわからない。
雑誌だけなら雑誌だけでいいし、商品だけなら商品だけほしい、余計なものは要らない。
あと、値段もとにかく安ければ、とは思っていなくって、
欲しいときが買い時なので、
プロパーな値段でプロパーな商品を買うことも少なくありません。
もともと物欲が強い方じゃないってこともあり、欲しい!という欲求がむくむく沸いてくるのはよほどのこと。
そのときは、欲しい気持ちを満たすことが最優先なので、値段はあまり関係ない。
あと、買い物スイッチが入るのはほとんどが旅先(仕事の合間にしろプライヴェートにしろ)で、この機会を逃したら戻って来ない、次はない、というのも後押しするかも。
そんなわけで、今ひとつ、付録付き雑誌のよさを感覚として理解できないので、
この手の記事を通して、そうなのか〜、と知るわけです。
それよりも貴重なのが、コメント。
すべての読者の声じゃないし、個人の感情が突っ走った内容が多いけれど、
でも、これがいちばん読んでて、あ〜、そういうことか〜、って気づかされます。
それにしても、そこには流通の問題もあるのだけれど、
商品に雑誌をつける、という見かけにしたらどうなるんだろう?
その場合、通常の本屋はどうかわからないけれど、複合に力を入れている本屋なら扱うよね。
そもそも本屋さんで雑誌を買っているのか、って問題もある。
雑誌に付録という立ち位置だから売れるのかな?
いろんなことをぐるぐる考えてしまいます。
働き方、ってそもそも上から与えられるものなの?
プレミアムフライデーとか働き方改革とか、
こーゆーの容れ物(制度)ばっかり整えてもなぁ、
と思っているのですが、
そもそも、働く側って、本当に変えたい、って思ってるのかな?
ストライキもなければボイコットもなければ、
労働組合の活動が活発になったとか、そんな話、きかない(私だけ?)
権利って黙って待っていて与えられるものなのな?
会社が政府が、つまり上がやってくれないやってくれない、ってばかり言うのって違うんじゃないかな?
社会が変わりそぐわなくなったものは、まずはユーザーが声をあげて権利を勝ち取るものじゃないのかな。
上が気づかない、ってこともあるだろうし。
働き方もそうだけど、個人個人によって何をもって快適な生活かってのは違うし、
どうして欲しいか、こうしたいああしたい、という
文句ではなく建設的な意見を提出せずして、
それぞれに見合った快適な暮らしって望めないんじゃないのかな。
そもそも論になっちゃうけれど、よくよく考えれば不思議だな〜。
いや、不気味だな〜。
ふとんは敷く(しく)、油は引く(ひく)
30歳近くまで、“ひいては”を“しいては”と思っていました、私。
耳で聞くとどっちかわからず、私の耳は“しいては”と認識していたんですね。
ある時、執筆原稿で、つまり仕事で使って、訂正されて初めて知った、という。。。
ものを知らない、っつーのはこういうことです。
ただ、恥をかいたものは、頭に叩きこまれますね(笑)。
江戸っ子じゃなくても“し”と“ひ”は間違えやすい。
私なんぞ、さらには、滑舌(かつぜつ)をかつれつ(カツレツ)? なんじゃそれ?とず〜〜〜っと思ってたぐらいだし。。。
で、“しく”と“ひく”。
これも紛らわしいですねぇ。
意味を見ると、
しく(敷く) → 平たくなるようにおく、敷設する
ひく(引く) → (“引く”から発生し)引きのばすようにして一面に塗る、引き込むようにして入れる
なので、
・ふとんは敷く
・油は引く
となるわけです。
とりわけ混在しているなぁ〜、なのが、
“油を引く”と“油を敷く”。
確かに、フライパンなどに平たくのばしていると言えなくもないですもんね。
ときどき、どっちだっけ?となったときは頭の中で、
ふとんは敷く(しく)、油は引く(ひく)、
と唱えています。