書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

そういうわけじゃないんだけどね

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私は、アカウントは持っているものの、フェイスブックは積極活用をしていなくって、

ブログを更新しました、の告知と、おっ!と思ったニュースをシェアすることがほとんどで、

オンラインのスクラップブックと化しています。

 

ニュースは、ヘッドラインだけ見てあとでじっくり読もうと思ったもの、

海外ダイレクトのニュースは、日本で報じられなかったり、報じられる場合も時差があったり、また切り取り方が全く違う、そういうのを。

自分だけ公開にしてもいいんだけど、

人がニュースをシェアしているので、シェアしてくれてありがとう!ってことが少なくないので、

私と同じように興味を抱く人がいるかもな、ぐらいの軽い気持ちでシェア。

 

なので、内容が好きだから、とか、読んで!の気持ちでシェア、していなくって、

中には、対象自体は私個人としてはまったく好きではないけれど、

でも世間一般ではファンが多くって、

その事象について、なんでだろう?と思って、理由になるほどね!と思うことがあって、

シェアすることもあります。

 

なので、シェアしているもの=好きなこと、ではないのだけれど、

そういう風に捉えられるのが、ちとめんどくさい(いちいち説明はしないけど)。

 

 

う〜ん、何だろうな。

自分を信用していない、というのとも違うのだけれど、

自分の捉え方が絶対ではない、自分と他人は違う、というのが常にあって、

自分が苦手でも世間で受けているものに対しては、

この、私の“苦手”と世間一般の“好き”の間にあるギャップが何なのか、その理由を知りたい、と思うわけです。

逆もまた、同じで。

 

自分をあくまで媒介と位置づけて、フラットな状態にしていたい、んですよ。

そうしないと、自分絶対の視点になるから。

わかりやすいところでは、日本だとこうなのに海外だと違う! とか、地元だとこうなのに東京だとこうじゃない! とか、でこき下ろしたり小バカにしたりする件。

それぞれ違う、っていう認識ありきだと、

ああ、そうなんだ、ここではこうなんだな、で済むことなのに。

 

 

○○好きなんでしょ?みたいなことを言われ、FBのシェア=好きという認識なんだ!に驚いて、つらつら思ってみたことを。

いちいちハンディをつけなくてもよろしい

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インテレクチュアルでない、教養がない、ってことの表れかも知れませんが、

私はクラシック音楽に疎い。

聴く環境になかったし、

ティーンエイジャーからはインディー&オルタナ街道まっしぐら。

洋楽オタクってやつです。

 

が、イギリスに住んだとき、気づいたのは、

若さの象徴のようなポップスもロックも、それこそインディー&オルタナも、

クラシック音楽という素地の延長上にあるってこと(ついでキリスト教的なことも)。

クラフトワークなんて、クラシック音楽の真っ当な後継者って気がするもんね。

 

ああいうのは、教養なくしてできない。

その教養ってのは、子供の頃からの環境要因も大きく、

現在のそれは、ヨーロッパに起因するわけで、

本物を美術館なり演奏会なりで、しかも日常のなかで体験している、

この差は大きい。

 

 

毎年9月上旬のロンドンは、

8週間にわたって開催される、クラシック音楽の祭典“BBCプロムス”がクライマックスを迎え、

ロイヤル・アルバート・ホールでの最終夜の模様は、ラジオでもテレビでも放送されます。

「ルール・ブリタニア」「威風堂々」などの、いかにも大英帝国的な演奏が繰り広げられ、

「ゴッド・セーヴ・ザ・クイーン(キング)」「蛍の光」で幕を閉じる。

観客席に目をやると、この日のためのきれいに着飾った人、イギリスらしいモチーフ(サッカーチームのユニフォームとか)を身につけた人、国旗を振りかざす人など、いわゆるフツーの人もたくさんいて、必ずしもお高い感じでないのが、いい。

 

普段は“今さら大英帝国かよ!”って思っている私ですが、

このときばかりは、いやはや歴史と底力を痛感する次第です。

 

 

このBBCプロムスに、2013年ピアニストの辻井信行氏が登場しました(↓)。

www.youtube.com

私、それまで彼の演奏を聴いたことがなくって、

というのも“全盲なのにすごい”のお涙頂戴ストーリーに心底うんざりしていたのです。

そんな風にゲタをはかせなくっていいのに。。。

 

で、最近になって、このBBCプロムスでの演奏を聴いて観て、いたく感動してしまったのです。

 

技術的なこととか全然わからないけれど、

包み込むようなやさしさがあり、この人は本当に音楽がピアノが好きなんだなぁ、というのをひしひしと感じる。

そして、それをオーケストラが微笑むように応えているのも素晴らしい(丁々発止のバトルじゃなくってね)!

 

 

もうさ、メインストリームでない人がその世界で活躍しているときに、

全盲とか、障害者とか、女性とか、子供とか、外国人とか、

本筋ではないことを前面に出すのはやめようよ。

 

ただのピアニストでいいし、ただの政治家でいいし、ただの起業家でいいじゃん。

余計なことを言うから本質が見えにくくなるし、

もちろん、たとえば、辻井氏の場合はピアノまで誘導したり、そういうのは人として手を貸すのは当然としてね。

でも、それって誰しもそういう部分あるんじゃないの?

 

メインストリームから外れた人のハンディの部分を強調するのって、本人に対して失礼だと思う。

こういう人でさえ、こんなに頑張っている、っていうのは、

憐れみであって、やさしさななんかじゃ全然ない。

同じ土壌でしっかり勝負してもらって、受ける側もしっかり評価するのがやさしさなんじゃない?

ricorice.hatenablog.com

 

それにしても、BBCプロムスの最終夜、ロイヤル・アルバート・ホールで生で観賞してみたいな。

 

 

ライターをどんどん現場に行かせるべし!(当たり前のことだけどね)

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書くことって、本当に軽視されているなぁ、って感じます。

日本ではほとんどの人が読み書きができるわけで、なので簡単!って思ってるみたい。

とりあえず文字数を埋めることはできる、から。

 

でもね、受け手はバカじゃない。

多少(あくまで多少ですよ)稚拙でもちゃんと思いを込めて書いた文章なのか、

それは同時にちゃんと現場に足を運んで、ちゃんと咀嚼する、ってことでもあり、

ちゃらちゃらって書いたものかどうかは、読者にしっかり見抜かれる。

 

経費削減なのか、そもそもそういう頭がないのか、両方なのか、

ライターを現場に連れていかない、現物を見せない、試供品を使わせない、試食させない、

 

発注する側が、行かなくても体験しなくても書けるでしょ、

って思ってるみたい。

そりゃ、1円ライターがなくならないわけだ。

質の低下が止まらないわけだ。

読者が離れるわけだ。

 

それが証拠に、資料だけ送ってきて(しかも五月雨だったりすることも、肝心の意図が抜けていることも)

書いて!って平気で言ってくる。

そして、書いたものを渡すと、そうじゃなくって!と言ってきたりする

(想像でどんぴしゃりはできないよ!)。

 

 

とりあえず埋めただけの文章は、

読めば一発で分かる。

 

行っても行かなくても体験してもしていなくても書けそうに思えるけれど、

確信をもって書いているのか、

こうなんだろうなぁと想像で書いているのか、

そんなの受け手は見抜いちゃうよ。

 

 

先に体験して、書くことを介在して、読者やユーザーと共有体験する、のが目的なのに、

それは必要ない! そんなの要るの?って態度は、

ライターという仕事もだけれど、読者やユーザーを舐めているとしか思えない。

こういうことです、こういうことをやりたいんです、をよこさない人って。。。

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時代は変わるし、かつての基準の延長線上のマスパワーってものが期待できないのは明白だけれど、

それでも、私がメディアに携わっていることを知っている人たちが、

ときに、むやみやたらに近づいてきます。

 

その最たるものが、「自分の本を出したい!」。

自己主張、自己承認をしたいのなら、ほかでやってね(自費出版とか)。

 

だって、本を出すってことは、自分不特定多数の人に向けて届けるわけで、

しかもお金を払って買ってもらうわけで。

となると、社会の役に立つもの、

こういう情報が抜けている、とか、こういう視点でまとめた方がぐっと便利でしょ、とか、

立脚点がそこでないとなぁ。“私を見て見て!”が先行してもなぁ。

ricorice.hatenablog.com

 

同様に、「うちの店紹介して」「うちの商品紹介して」「企画を誌面で案内して」

ってこともよく言われます。

よく知っている相手や内容で、こういう風にすれば読者の役に立つかな、とストックすることはありますが(あくまで候補。知り合いでもダメなものはダメ。こちらの企画に沿わないものもNG)、

まったく何の情報も持ち得ていないものに関しても、そんなひと言だけ言い放つ人がいます。

 

「客観的にわかるもの、企画書(に該当するもの)をいただけますか。私だけでなく、(編集部なりの)総合判断になるので」

と言うと、そのまま何も言ってこない人も少なくない。

 

広告代理店のプレゼンじゃないので、パワポを使った分厚いものは不要。

むしろ、シンプルに5W2Hを簡潔にまとめてくれればいいのです。

A4一枚で充分だし、今の時代なので、書式にこだわらず、

メールで箇条書きでもいい。

 

そう伝えても、以後ぱったり。

 

 

うううう〜ん、ビジネスにも関わらず、お友達感覚の「いいよいいよ!」が通用するとでも思っているのかなぁ。

目の前の私に簡単な説明すらできなくって、世間に対してどうするつもりなのかなぁ。

同じ態度で、お客さんにも接するつもりなんだろうか?

 

意思伝達をしないでおいて、

冷たい、とか、理解力がない、とか、そうじゃなくって、とか、言われてもねぇ。

ちょっと意外。ストリーミングが半数以上じゃないんだ〜

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おもしろい調査結果を見つけたよ!(↓)

fnmnl.tv

 

これ、アメリカのティーン(13〜17歳)が音楽を聴いている方法をアンケート調査したもの。

私、圧倒的主流は、ストリーミングサーヴィス(SpotifyApple Music、YouTubeなど)だと思っていたから、41%という結果は、あっ、少ない!

 

そして、ラジオが13%ってのは、へええ〜、多いじゃん!って印象。

 

ソーシャルメディアは7%。

これはこんなもん、かな。

 

で、元記事はCDとレコード合わせたフィジカルメディアはソーシャルメディアに届かない、

と綴っているけど、そりゃそうだろう。

CD買うかぁ?

もはやとっくにティーンでない私ですら、CD買うのはパッケージ商品としてで、音を聴くのは断然便利ストリーミングになっちゃったよ!

そんな人多いんじゃないのかなぁ。

 

この感覚、CDのVinyl(アナログレコード)とを見比べたときに、それを物語っている気がする。

 

CD 3%に対して、Vinylが1%!

Vinyl大健闘じゃん!

 

CDが隆盛してVinylが隅に追いやられた時代(1990年代)、

Vinyl はDJかコレクターズアイテム的な要素で、確かに音は心地よくって、

私のような素人でもデジタルとアナログは音の違いが明確だし〜、

でもお手軽に聴くにはCDの方がいいし〜、で

CD花盛りだったんだけどね。

 

時代がまた移り、もはやCDもモノと化した今、

このVinylの健闘ぶりは、

同じモノを買うなら、CDよりもVinylの方がいい!って気分の表れなんじゃないかなぁ。

ポスター感覚で、インテリア小物としても買うとしても、Vinylの方が断然いいしね〜。

 

時代が変わると、求め方まで変わる。

おもしろいもんだねぇ。

 

カボチャを種まで食べようとして、ふと思う

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イモ、豆、カボチャの類は決して嫌いなわけではないけれど、

ごはんと一緒に食べるのが苦手で、

なかでもサツマイモとカボチャは甘みが強いこともあり、私の味覚だとおかずにはまったくならず、独立させて食べています。

 

量があるのでカボチャを丸ごと買うことはないのですが、

今年はいただきものをすること数回。

ありがたや〜。

 

種やナッツ類を香ばしくローストして食べるのが好きなので、

せっかくカボチャを丸ごともらったんだもの、

種も食べましょ、

は、いいのですが、食べるまでの工程が手間がかかるんだなぁ。

 

わたをのぞいてきれいに洗い、天日干しして、それから煎って、殻を外して。

はぁ〜。

 

 

私は何でもかんでも手づくりがいいとは思っていなくって、

手間ひまかけたていねいな暮らしではなくていいと思っていて、

そこは取捨選択して、個人個人が選べばいい。

大量生産のおかげで、いろんなものが廉価に手に入るようになったのは確かなので、

それを否定するようなことはしたくない。

大量生産のなかに、素晴らしい商品もたくさんあるわけだし。

 

ただ、カボチャの種の処理をしながら、

こういう工程を知るのは大事かもなぁと、改めて思ってしまいました。

お金を出せば何でも手に入るけれど、

そこまでに手間がかかっているんだ、ってことを知るために。

大変さがわかれば、ただやみくもに安ければいい、って発想にはなりにくいんじゃないか、って思う。

 

自分でするのが大変、だから、その手間を対価をして支払う。

モノだけでなく、サーヴィスも情報もすべて一緒ですよね。

自分でできないことは、相当のお金(もしくはそれに該当するもの)と引き換えにする。

 

自分で何もかもやる必要はないけれど、それがどんなものかを知っているか知らないかでは、態度が大きく変わってくるよなぁ。

 

ググることもひとつの技術である

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私が自分のマシンを手に入れたのが1996年。

どうにもこうにもインターネット(初めてつながったときは、まさにwindow to the worldだぁ〜!と大興奮したことを今もはっきり覚えている)を体験しなきゃ、で浮かされたようになっていて、

それから20年以上が経過。

 

今、私は40代後半で、同世代で、たま〜に、

ググれば簡単にわかることを電話(!)してくる人がいて、

そうじゃない、こうじゃない、と言ってくるので、

スマホ持ってるんだったらググりなよ、と言ったら、

スマホはラインと通話しか使ってないとのこと。

で、よくよく話を聞くと、ググり方がわかっていなくって、

思うような回答にアプローチできていない模様。

 

はっ!としました。

 

私は同世代のなかではネットにふれたのが圧倒的に早かったし、

そのあともずっと身近にあって、恩恵を受けて暮らしているけれど、

この世代って、今の20代とかと違い、生まれたときからネットが当たり前の環境にいないわけで、

そうすると、どこかのタイミングでネットになじんでないと、使えないんだなぁ。

 

ググるって言葉もない時代からググっていた身としては、

そんなの習うより慣れろで、さわっていれば自然とわかる、

という意識なのですが、そうでない人も多いのかもね。

 

ググる次の段階としては、情報の取捨選択があり、

こういうネット検索って、当たり前過ぎてどおってないことのように思っていたけれど、

それはそれで立派なひとつ技術なのかもしれない、と思ってしまった。

こういう人たちにちゃんと教える場は必要だな、と痛感(すでにあるのかもしれないけれど)。

その場合、人によってできることや使う目的が全然違うだろうから、個人教授の方がいいんだろうなぁ。